救わぬ神より 救う化け物を愛す 08話

08話 変化

【あらすじ】
貧しい村で生贄に捧げられた少女は、山奥の社に住んでいる神と出会う。神の滋養になるため食い殺されると思っていた少女だが、神は少女を気に入り側に置くことに。
次第に明かされる神の本性。果たしてそれは本当に神なのか、それとも……。

 一度目の宴が終わってから、季節は過ぎ、その間に何度か他の宴にも参加した。  主人は最初、面倒くさいと嫌がったが、鬼が美しい季節の着物を持ってきて、嫁に着せてやり、折角なら色んな人に見せてやってはどうか、とわざとらしく言った。 『なぜ他人に見せびらかす必要がある』  不機嫌そうに言ったが。 「もう、宴には行かないの?」  と、少し寂しそうに言われたので。 『……っ、いこう、か』  そういうわけで、何度か季節の催しに参加して、そのたびに舞や歌を披露する『人間の娘』に対する周りの評価は変わっていったようである。ともすれば主人よりもよほど交友関係を広げ、最近ではどこぞの神々や物の怪と仲良く本や刺繍の話で盛り上がっているのを聞いた。少々の嫉妬はしたものの、楽しそうな妻の姿を見れば溜飲が下がった。 「ね、今度、宮に遊びに来ないかって誘われたんだけれど、行ってもいいかしら?」 『……仕方がない。良いよ。お前がよく世話になってるみたいだし、私も菓子折りくらいは持って行こうか』  この発言には鬼がとてつもなく驚きながら、やっと他と交流する気になってくれたと、大喜びでよい菓子を用意した。  ちなみに、これには菓子折りを渡された方の物の怪も仰天した。  神殺しの彼女は、人間の娘を娶って、随分と変わったようだ。と、噂された。実際は妻に甘いだけで、他の者に対する感情に差し当たって変化は無かったのだが、本来であれば少しでも気に障ることがあれば一瞬で消し炭にしてしまうような場合でも、妻に「やめてあげて」と言われれば、渋々、殺すのをやめたので、実体としては確かに変わったと言えるのだろう。  日々のささやかな喜びを、夫婦は分かち合い、健やかに過ごした。  そんなある日、いつもの社で主人は妻を待っていた。妻の日課は社の掃除と捧げものを取りに行くこと。そんなものお前がする必要は無いといったが、にっこりと笑って「これも大事なおつとめですから」と言われてしまったので、そのまま任せることにしていた。 『おかえり』  帰ってきた妻に声をかけるが、俯いて返事がない。 『どうしたんだ。何かあったのか?』 「……あの、相談が、あるの……」  いつになく、言いにくそうに、迷っている。いまさら、なにをためらって話すことがあるのだろうかと思って。微笑んで尋ねた。 『なんでも言ってみなさい』 「……村に、一度、行かせてもらえないかしら」  それは、想像しなかった返事だった。 『っ、なぜ!? まさかお前を虐げた人間どもに未練があるのか!? それとも何か、大事な物を置いてきてしまったのか? それなら鬼を遣わせればよい。お前がわざわざあそこに足を運ぶなど───!』 「ごめんなさい……!」 『あ、ち、ちがう、そうじゃないんだ。お前は、何も悪くない……すまない。その、わけを話してくれないか……?』  怯えさせてしまった事に、深く反省しながら、なるべく優しく、傷つけないように尋ねる。そうしたら、彼女は小さな声で話し始めた。 「実は、村からの捧げものが、最近とても少なかったり、作物も、あまり良くないものが多くて、杞憂なら良いのだけれど、もしかしたら村の農作が上手くいってないのでは、と思ったの。それだけではなくて、今までたまにあった動物の捧げものもしばらく見ていないし、酒や絹といった類はまったく無くて、思ったより財政が悪いのかもしれないと……。もちろん、あなたが村に大きな災害が無いよう恵を与えてくれているのは分かっているのだけれど、少し心配で、直接村を見てみたら何か分かるかもしれないと思って……。だめ、かしら……?」 『なるほど、ね。……本当は行かせたくはないが、仕方ない。いいだろう。もちろん私も一緒に行くからな』 「えっ!?」 『なんだ、なにか問題があるか?』 「い、いや、問題は無いけれど、絶対いやがると思ったから……」 『もちろん行きたくはないさ。けれどお前ひとりで行かせるのはもっと嫌だからな。鬼と行かせても良いが、奴らは融通が利かんところがある。村人を怯えさせて上っ面の情報だけもらっても意味が無かろう。私が少しばかり見た目をいじっていくくらいが、丁度いいだろう』 「ほんとうに、ありがとう」  嬉しそうな妻の顔をみて、やれやれ、と思う。  人間のことなんてどうでも良い、村人も本当ならさっさと殺して、もっと景色のいい場所で二人きり、心置きなくくつろいで暮らしたい。けれども、彼女がそれを望まないのだから、どうすることもできないのだ。どうして、自分を虐げ、生贄にまでさせた村人をそこまで想うのか、到底理解は出来なかったが、望んだように、してあげたいと思った。だから今回のことも、自分がついていれば大丈夫だろうと村へ行くことを許した。    ***  村へ行く日、その方は姿も顔も人間に限りなく近くなっていた。すこし平均よりは大柄だったが、村人が怯えるほどでは無いだろう。 「用意は出来たか?」 「うん。大丈夫」 「私は、神がお前に付けた半神の護衛という設定だからな。間違えるなよ」 「分かってるわ」 「今日は様子をみるだけで早めに帰るというのも忘れるなよ」 「大丈夫」  心配そうに確認してくるけれど、諦めたようにその方はため息をついてから。 「……はぁ、行こうか」 「うん」  二人で山を下りていく。  本来ならばそれなりに時間がかかるはずの道のり。けれども、この方が途中で道を歪めて、つないでしまったらしい。ほんの数十分で村が見えるところまでついてしまった。  村が見えてくると、昔に戻ったような気がして、急に恐ろしくなってきた。自分から行きたいと言っておきながら、こんな風に怯えているなんて、情けないと思いながら、手足が震えて、からからに喉が渇いていく感覚が、どうしようもなく襲ってきた。けれど、隣に立つ女性がそっと私の背中に手を当てる。 「私が隣にいる。恐れることは、なにも無い」  その気になれば、目に映るこの村一帯を焼き払える力を持った、人ならざる御方。私の永遠の伴侶である、愛しいひとが、力強く、笑ってくれる。 「ありがとう」  覚悟を決めて、私は村に足を踏み入れた。  ───結論から言うのなら、村の状態はそれほどひどくは無かった。農作物も豊作とは言えなかったけれど、私がいた頃から比べたら、むしろ安定しているようにも見えた。安心して、でも、それならどうして捧げものが減っているのだろうかと思ってあなたに尋ねようとしたら、それより先に村人が慌ててやって来て言った。 「お前、生贄がなぜこんなところにいる!」  その怒号に、貴女は恐ろしいほど静かに答えた。 「この婦人を誰と心得る。御神様の奥方様だ。わきまえよ」  村人たちは動揺して、ひとまず私たちを村長のいる屋敷へ案内した。屋敷と言っても、この村では比較的大きいというだけで、簡素なものであったのだけど。 「よくぞ、お越し下さいました。奥様。して、その隣の女性は?」  長老が尋ねたので、私は打ち合わせ通り答えた。 「彼女は、神様が私の護衛にとつけてくださった方です」 「これはこれは! このようなところまでご足労いただきまして、誠にありがとうございます。大したものはありませんが、すぐに食事をご用意致しますので、どうぞお寛ぎになってください」  ひとまず、受け入れられたようである。でも村の者たちは、当然のことながら私たちのことを怪しんでいるようで、じろじろと視線を感じた。なにか言ってくる者は、一人もいなかったけれど。  監視している村人たちには聞こえないように、小さな声で私は先ほどの疑問を尋ねてみた。 「ねぇ、村はそんなに逼迫しているようには見えなかったけれど、どうして捧げものが悪くなっていたのかしら。なにか他に理由があるのかしら?」 「……さて、なぜだろうね。まぁ村が安定しているなら、そこに言及する必要も無かろう。放っておけばいい。たとえ捧げものがなくなったとて、さして困らん」 「そう、ね。でも……やっぱりなんでもないわ」  あからさまに、不機嫌な様子のあなたにこれ以上尋ねる気にはなれなかった。それに、今の言い方だと、本当はなにか思い当たるところでもあるようにも感じられた。それなら、追及する必要もないのだろう。言われた通り、放っておくのが一番なはずだ。  ほどなくして、豪勢な料理が運ばれてくる。大きな魚や、果物、酒や肉が盆にのって次々と並べられる。こんな料理は、私が村にいた頃は見たことが無かった。やはり、村の状況が悪いと思ったのは、私の杞憂に過ぎなかったようである。 「どうぞ、どうぞ、召しあがってください」  言われて、少し戸惑いながらも料理に箸をつける。  隣で面倒くさそうに料理を口に運ぶあなたは少しおかしかった。ふくれっつらで、美味しいのか、あまり味を感じていないのか、よく分からないけど、噛んで飲み込んでは、ぽいぽいと口の中に食べ物を放り込んでいく。  村のみんなが、かつて私にしたことを許すことはきっと出来ないけれど、今となっては随分、昔のことで、少なくとも、もう私を傷つける人はいないのだから。あなたとここに来て、少しだけ嫌な記憶が塗り替えられていくような気がした。  食べている間に、新しい盆にのって飲み物が運ばれて来る。 「これは……」 「酒でございます。そこまで強いものではありませんので、ご安心ください。お注ぎ致しますね。護衛の御方も、どうぞ一献」  とくとく、と注がれる透明なお酒を見て綺麗だなぁと思った。そういえば、色んな宴に参加したけれど、お酒を飲んだことは無かった。あなたは大して美味いもんでもない、なんて言ったけれど、実はずっと飲んでみたかったから、少し胸を弾ませて、一口、飲んだ───そこから、私の記憶はとぎれとぎれになっている。  お酒の味は覚えていない。少し苦かったような気もする。舌がぴりぴりと痛かったかもしれない。それで、あなたの叫ぶ声が聞こえたはず。何を言ってるかはよく分からなかったけど、一つだけ分かったのは───。  これが、ただのお酒じゃなかったってこと。  あなたの叫ぶ声とともに、周囲が騒然として、けれど私を助けるために動いたのではないことは感じた。金属の触れ合う音も聞こえた。おかしい、とか、なんで、とか、貴女の声はよく聞こえないのに、周りの音は不思議と耳に響いたわ。きっとみんなびっくりしたのね。あなたも同じものを呑んだのに、何ともないから。それにしても、最悪だわ。初めて飲んだのが、毒杯だなんて。  あぁ、でも、これだけは言わなくちゃ。なにがあっても、絶対に。 「ころさ、ない、で……ね」  大粒の涙が落ちてくるのだけは分かって、そのまま、私は完全に意識を失った。    ***  私は元より、村にいくことなんぞ望んでいなかった。生きようが死のうがなんの感情もわかない人間を相手に、わずかでも恵を与えてやっているだけで十分すぎるというのに、それで不作だの金がないだのというのなら、それは奴らが阿呆なだけだろう。気に掛ける価値など欠片も無い。お前は私のことだけを想っていればいいのに。  そう思ったけれど、村を憂う優しい妻の願いを、無下にすることは出来ずに、しぶしぶ、力を貸してやろうと思った。出来るだけ愛しい妻の意向に沿ってやろう。村人を脅さず、平穏無事に、終われば、それですべて良かった。  村が特に荒れている様子が無いのを見て、安心していたから、私も嬉しくなった。他ならぬお前が嬉しそうだったからだ。なぜ、村が何ともないのに捧げものが減ったのか、予想はついたが、どうでも良かった。いっそ捧げものなんて無くなれば、お前をこの地に縛る理由もなくなるんじゃないかと期待した。もはやいもしない『神』への信仰なんてものは、さっさと廃れてしまえばいい。  けれど、社に住まう私を神では無いと知りながら慕ってくれるお前は、信仰が薄れ、軽んじられていることを知ったら悲しむのではないかと考えたら、言う気にはならなかった。  少しもてなされて、あとは帰るだけ、適当に食事に手を付けておけば向こうも納得するだろう。味わう気にもならなかったが、ひとまず食ってやろう。となりで嬉しそうに食べているお前の気分を害するのも忍びない。酒も、どんな美酒であっても美味いと思った事がないが、これも少しは呑んでやらねば、向こうの面子が立たんだろう。別に毒になるわけでもあるまいし、そう思って、一杯煽った。となりでお前が、嬉しそうに酒を口に含むのをみて、そういえば以前、どんな味がするのかと聞いてきたことがあったな、と思いだす。あの時飲んでいたのは酒好きの神が振舞ったもので、少しきついものだったから飲ませてやらなかったが、これは匂いもそこまでしないし、酒精はきつくないだろう、初めて飲むには丁度いいくらいか。  そんなことを考えて、お前を見ていた。酒を、コクン、と飲み込んで、そのまま───お前は杯を落とした。    ***  「ころさ、ない、で……ね」  意識が途切れる刹那、小さく言った言葉は、正しく守られた。  神殺しと呼ばれるそれは、猛り狂ったが決して一人も殺さなかった。それよりも、妻を救う事しか頭に無かったとも言える。ともかく、それは変えていた姿を元に戻し、化け物に近くなった。それは、気を失っている娘が知るよりも、さらに、異形に近づいて、娘の護衛も一緒に殺してしまおうなんて考えて武器を手に取っていた村人は、その姿を見れば腰を抜かすどころではなかっただろう。  背から赤い羽根を生やし、半身には鱗が浮き出ていた。鳥のような、蛇のような、奇怪な姿が、彼女の本来の形である。  化け物と化し、娘の体から毒を浄化するために、一度自分の腕を長く鋭い爪で切りさき、その血を口に含んでから、娘に口移しで飲ませる。  娘は、既に人間でなくなり始めているから、即死は免れたものの、このまま目覚めない可能性もあった。もしも、目覚めることが出来ても、なにかしらの後遺症は免れないだろう。体が熱を持ちすぎている。おそらく、体内で化け物の与えた血と、毒がせめぎ合っているせいだ。  人間は、高熱になると脳の神経が耐えられず、様々な症状が出る。目が見えなくなったり、喋ることが難しくなったり、耳が聞こえなくなったり、どの神経が傷ついたのかによって症状は様々だが、なにかを損なう可能性は、非常に高い。けれど今は、とにかく───。 『目を開けてくれ』  ぼろぼろと泣いた。この世に存在してから、一度だって泣いたことはなかったのに。そのための器官がないのかもしれないと思うくらい、激しい感情など湧いたことが無く、これほどまでに、何かを願ったことなど無かったのに、今はすがる思いで、ちいさな人間の体を抱きしめる。 『お前が望むのなら、神にだってなってやるから、お願いだから、私の傍で、笑ってくれ。私はもう、お前がいなければ、消えてしまう』  化け物が、初めて願い事を言った頃、騒然としていたのはその村だけではなかった。  海を挟んだ大陸の方では、のんびり桃を食んでいたのを、思わず床に落とし、女が青ざめている。 『なにごとじゃ! 姫君が真姿シンシになるとは、かの嫁御になんぞあったのかえ!?』 『直ちに遣いを飛ばします。報告をお待ちください』 『待っておれるわけなかろうて! 一大事じゃ! わらわが行って確かめてくる!』  また、更に遠く、大陸をはるか進んだ地の天空では、男は口説いていた娘のことも忘れて神殿に戻った。 『俺が直接行く、しばらく戻らないかもしれないから、神殿の管理は任せる』  それだけ言って、時空を飛んだ。  他の神々や、物の怪たちも勘の良い物はすぐに、尋常ではない力の波を感じて、恐れた。平然と神を殺す、あの姫君を『怒らせる』ことなど、誰も出来ないと思っていたのに、一体だれが、何をしたというのだろう。    ***  ───体の中で、なにかがぶつかり合って、熱が生まれるのを感じていた。痛くて、苦しくて、視界にはなにも写っていない。頭が焼き切れそうになる。けれど、叫びたくても声は出ない。泣きたくても涙は出ない。どこが痛いのかも、分からない! でも、痛くて、痛くて、誰か、助けて、おねがい─── 「あな、た、どこ、に」 『     』 「こわい、あなた、助けて……あついの」 『         』  冷たくて大きな手が、私の手を握っているのが分かった。この感覚は、間違いなく、あの方のものだ。 「よかった。そこに、いるのね」  安心して、私はまた眠った。まだ熱くて、少しだけ苦しかったけれど、もう、怖くはなかった。  どれ程の時間、眠っていたかは分からないけど、きっととても長い時間眠って、起きた時には、もう熱さも苦しさもなくなっていた。あのまま死んでしまうかもしれないと思ったけれど、今も隣にあなたがいるのが分かるから、私はまだ、生きているらしかった。 「ねぇ、あなた、私どれくらい眠ってたのかしら。今は夜?」  返事が返ってこなかった。不安になって、もしかしたら隣にいるけど眠っているのだろうかと思って、暗くてよく見えないまま、手探りで、あなたを探す。そうすると、すぐに私の事を抱きしめてくれたから、また、ほっとして、私はもう一度尋ねた。 「あなた、私ったら長いことあなたを心配させてしまったわよね。どのくらい待たせてしまったかしら?」  けれども、やはり返事は返ってこなかった。代わりに、ぽたぽたと、私の手の甲にしずくが落ちた。それから、もう一度、抱きしめられて、今度は手のひらに、あなたのつめたい指が触れた。 【みっか ねていた からだに つらいところは ないか】 「どこも辛くないわ」 【よかった とても しんぱいした】 「えぇ、そうよね。ごめんなさい。もう平気だから、安心してね」 【みまいが たくさん きている】 「本当? なんだか申し訳ないわ」 【よんでこさせるから まっていてほしい】 「えぇ。分かったわ。……傍に、いてね?」 【ぜったいにはなれない だから あんしんして】 「……ありがとう」  不安が無いわけではなかった。でも、きっと大丈夫だろうと思った。たとえ、この先ずっと治らなくても。  お見舞いに来てくれた神様や物の怪たちは、沢山のお見舞いの品をくれた。とても高級な果物だったり、仙薬だったり、着物や書物を持ってきてくれた方もいた。どれも嬉しかった。自分が、こんなにたくさんの存在に、こんなに心配してもらえるなんて思っていなかったから。 【おまえにおしえてもらった ししゅう できるようになった さわってみてくれ】  そう言われて凹凸のある布を触ると、形を想像することが出来た。 「こんなに細かい柄を縫うのは大変だったでしょう? 完成させてくれたなんて、とっても嬉しいわ」  返事は無かったけれど、布を持つ手が震えているのは感じた。  またある神様は、そっと私の頭をなでて。 【きみのために はなたばを よういした かおりが わかるかい】  懐かしい、初夏の匂いがした。 「えぇ、とってもいい香り。すごく嬉しいわ。お花をたくさんありがとう」 【きみたちに こんど こうすいを おくろうとおもうんだ なんのかおりがいいかな】 「あの方は、何の匂いにするって言ってたかしら?」 【もみじのかおりに するそうだよ】 「あら、本当に紅葉がすきなんだから……じゃあ私は、百合の匂いがいいわ」 【わかった とっておきのこうすいを おくるから きたいしておいてね】 「えぇ、楽しみだわ。あなたが宴に付けてくる香水、実は少しまえから気になっていたのよ」  そんな調子で、かわるがわる、親しくしていた者たちがお見舞いの品を渡して、少しだけ言葉を交わしていった。それもひと段落ついて、皆がひとまず私の無事を確認して帰っていったあと。やっと二人きりになったから、私は尋ねた。 「村の人たちは、今どうしているの?」 【いきているよ】 「……そう。ありがとう」  確かめることは出来ないけれど、疑う事はしなかった。  そのまま、再び時間は動き出して、頻繁に届く季節の香りや、刺繍の贈り物を楽しみにしながら過ごした。あなたは片時も私の傍から離れることはなく、ずいぶんと長い年月が過ぎたように思う。  けれど、私の体はいつからか、変化しなくなっていた。本当ならとっくにおばあちゃんになっていても良いはずなのだけれど、あの頃のまま、変わることは無く、私の隣にいるあなたも、同じように何も変わらなかった。  ただ、少しだけ変わったことと言えば、あなたが『神様』になったことかしら。むつかしいことはよく分からないけれど、私の身の回りの世話をしてくれる鬼が、嬉しそうに言っていたから、良いことなのだというのは分かったわ。私にとっては、特に変わりは無かったけれど。 『おはよう。今日の捧げものを取りに行きましょう』  私が声をかけると、床からあなたが歩いてくる振動が伝わって、それから優しく手をとってくれる。 『たくさん果物があるわ。鬼に切ってもらって一緒に食べましょうか』  あれから、村人の捧げものは、以前にもまして豪華なものに変わった。  私は、その理由を尋ねることはしなかった。歳月に、負けてしまったのかもしれなかった。けれども、後悔することは、もう出来ないのだろう。  ───猛り狂った神は、妻が目を覚ますと、喜び、嘆いた。  神は妻を貶めた愚かな人々を、寛大な心で許し、僅かな処罰を与えるだけにとどめた。  神は、人々の右目を奪った。  これから先、命ある限り神とその妻を一片の偽りなく信仰し、許しを乞い続けるならば、それ以上の罰を課すことは無いと告げた。  人々は、神とその妻を、畏れ、ひたすらに信じた。  山深くにある社には、永年、捧げものを忘れてはならない。ただし、酒の類を捧げることは固く禁じる。そして、社の近くに時折現れる、麗しい乙女たちを見たのならば、即座にそこを離れなければならない。  祈りを忘れたならば、業火に焼かれ、けれども死ぬことは許されない、まことの地獄を知ることになるだろう。  信仰は命より重きもの也───  村に代々受け継がれる言い伝えは、まことしやかに囁かれ、いまだ、人々はその掟をかたく守っている。ある者が、伝承にある乙女を見たと言い、それはまことに麗しく、真っ白な髪の女であったと騒いだが、その者は次の日に誤って鎌を右目に刺して失明した。  二度と、山で見た女の話をすることは無かった。  今でも、社に住まう乙女たちは、人々を見守っている───。

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