05話 花束
※小児加害など一部残酷な描写があります
あらすじ
近代ヨーロッパを舞台にした復讐劇。
ある事件により、車椅子での生活をおくることになった少女イネスは、その事件に関わった人間を探し出して自らの手で復讐することを願っている。唯一の味方である元奴隷のルイに協力してもらうが、なかなか犯人は見つからないまま、親の勧める実業家イーザック・フォーゲルの元へ嫁ぐことを決める
最初は互いに利害関係のみで成り立つ冷え切った夫婦関係だったが、ある出来事をきっかけに仲が深まり、やがて復讐へ協力してくれることになるが……。
【花束】
私達の夫婦生活は何事もなく、それは本当に、穏やかに過ぎていった。
私は車いすで屋敷のあちこちに行ったけれど、あなたと会うことはほとんどなく、代わりに執事のアダルフォとはよく会った。いつも柔らかな微笑みを浮かべて、丁寧な口調で、不自由はないか、欲しいものはないか、と尋ねてきた。私は本当になにも困っていなかったから、微笑んでありがとう、とだけ返すようにしていた。
そんなある日、珍しくあなたを見たから少し驚いて、でも、タイヤを押し進めた。だって、そこは私もお気に入りの場所なんだから。お仕事の邪魔で無ければ、いいでしょう?
「よく、眠っているわね……」
お屋敷の庭の中にある白いベンチ、そこはちょうど、お昼まではよく日が当たるから、温まっているのだけれど、お昼を過ぎると程よく木陰になって、確かにお昼寝には最高の場所。でも、いくらなんでも、そんなにベンチに横になったら体を痛めてしまいそう……。それに、流石に冷えると思うのだけれど。
「仕方ないわね」
私は自分のひざにかけていたブランケットを、彼にかけると、その場を後にした。
数日経って、そのブランケットは執事づてに私の元へ帰ってきた。
「申し訳ありません。旦那様はお忙しくて、代わりにお礼をと、この花を……」
アダルフォはそう言って、丁寧にたたまれたブランケットと、小さな花束を持ってきた。
「……お花は結構よ。ベンチで寝ている人がいたら、私はそれが誰であっても心配するわ。気にしないでちょうだい」
「それは、申し訳ありません。ですがこれは、ほんの気持ちですので、どうぞ受け取って下さいませんか?」
花なんか貰ったところで嬉しくもなんともないのだけれど。
「分かったわ。ありがとう」
あとでルイになんとかしてもらおう。確か、茎を毎日切ると長持ちするんだったっけ。……すでに死を待つばかりの花を、長持ちさせたとて、意味のない行為のように思えるけれど、それでも、生きていたいと願うだろうから。
───場所は移り、イーザックの執務室。
「イネス奥様は、お花がお好きではないようです」
初老の執事が、静かに報告をするのを、決して仕事の手を止めることなく、聞いていた。
「……女は花をやれば喜ぶと書いてあったが」
「いい加減な書籍を読みあさるくらいなら、直接奥様とお話ししたほうが良いと思いますよ」
「俺は話の長い人間が嫌いなんだ。そして女と言うのはいつも、どうでも良いことをだらだらと喋って時間を浪費させる。無駄だ。今後も問題の無いようお前がしっかりと見張っておいてくれ」
「……かしこまりました。それから三日後の───」
「分かっている。命日くらいゆっくり過ごせ。家のことは心配ない」
「ありがとうございます」
毎年、アダルフォは妻の命日だけは何があっても休暇を取るようにしていた。病弱で、若くして亡くなってしまった妻を、今も深く愛している。
「花束を渡した時の表情が、驚くほどよく似ていましたよ……」
かつて、交際を始めたばかりの頃に、愛しい人へ気持ちを込めて、花束を贈った。そうしたら彼女は、微笑んで、受け取ってくれた。けれど、二度目に花束を贈った時は、悲しそうに、申し訳なさそうに、少しだけ笑って。
『……ありがとう、でも、その……私はお花の世話は得意じゃないから……レターなんかの方が、嬉しいわ』
彼女は、一生懸命言葉を選んでそう言った。まだ若く、未熟だった私はそれを言葉通りに受け取って、次からはレターを贈るようになったが、彼女の真意を聞いたのは、結婚式の日だった。
結婚祝いに友人たちから沢山の花束が贈られ、私は彼女があまり喜ばないだろうとは思ったが捨てる訳にもいかないからと、花瓶に生けていた。その時までは、彼女は『花』が好きではないのだと思っていた。けれども、彼女は生けられた花を見て、穏やかに笑って言った。
『綺麗な花ねぇ……それに、とってもいい香り』
「……花嫌いは、やめたんですか?」
『え……?』
「私が昔、花束を贈った時は、あまり嬉しくなさそうだったので、てっきり……」
『あぁ、あれは、その、そうなの。……お花ってとても綺麗だし、見ているだけで幸せな気持ちになるから、好きなのよ。でも、ほら、すぐに、枯れてしまうでしょう……? 私では長持ちさせてあげられないし……。なんだか、あの頃はそれを見ているだけで、自分もいつか、花瓶に生けられた花のように、死んでいくような気がしたの』
今は、あなたが側にいるからそんな不安になったりなんてこと無いのよ、と焦って付け足した。けれど、彼女の花を見る気持ちは変わっていないように思えた。結婚生活は本当に幸せだったが、冬になれば入退院を繰り返し、夏は比較的、体の調子が良いが、それでもあまり外に出ることは出来ず、常に病を恐れて過ごしていた。
幾度目かの春に、療養のため私も長期の休暇をとって気候の良い場所へ行ったが、間もなく梅雨が始まり、彼女の体調は回復するどころか、やせ細るばかりで、そのまま夏を迎える前に息を引き取った。
旦那様はしばらく仕事は休んで良いと言って下さったが、私はむしろ悲しみに押しつぶされないように、無理にでも働いた。結局、その後、体調を崩し、本当に迷惑をかけてしまった。けれど旦那様は私を見離すことはなかった。だからこそ、私はその信頼に報いたいと思っている。
イネス奥様は、今までのお見合い相手のような『お嬢様』ではない、というのは、もはや明らかだ。庭園を一人で楽しそうにめぐり、冒険譚をなつかしいと言い、理由なく人を慈しむ心を持っている。あのような女性こそ、イーザック様に必要な方なのではないかと思えるのだ。
たとえ今は利害関係の上に成り立つような結婚であったとしても、それで何もかも諦めてしまうのは、あまりにも早い。ほんの少しづつでも、二人の関係が変わっていけるよう、ささやかな手伝いをしていくつもりである。
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