薔薇色の男娼 05話

05話 本能

※残酷な描写、性的な描写があります

あらすじ
荒廃した世界でいくつか残っている人の密集した都市、そこで行われる内紛、歪んだ秩序の下にある治安維持。
堤《つつみ》は、現在の上司である男に強引に連れられて高級娼館を訪れるが、男娼のランファを見た途端どうしていいか分からなくなり店から逃げ出してしまう。しかし、しばらくしてもランファのことが忘れられず今度は自分で娼館へ向かう。
性的な関係を持たずに繋がれていく二人の関係。謎めいた男娼ランファの正体とは、そして二人の関係の行方は如何。

【本能】  季節は移ろい、いつものお土産が果物から再びお菓子へ変わる頃。 「堤、まさかまだ私に緊張しているわけでもないでしょう。そんなに顔を赤くして……」  なんてことはない。ランファは何気なく堤が買ってきたケーキを手ずから食べさせてやろうとしただけなのだが。口を開けるどころか慌ててろくに言葉も出てこないほど硬直してしまった。 「まったく。これじゃあ、いつ手を出してくれることやら」 「いや、俺は、だから、そういうのは……」  未だにそう言って、初めて店に来たときより確実に親しくなっているのに、関係は変わらない。  最初に彼がそういった行為を拒否した時は本当に嫌そうだった。  ランファは性行為を望まない相手に強要する気は微塵もない。だから手を出す気も、出していいぞと唆すようなこともしなかったが、今の堤が決して本気で嫌がっているわけでないのは分かりきっている。  もちろんプラトニックな関係も悪くはない。そういう風に愛した男もかつていた。けれども堤はランファに性的な興奮も覚えているのだ。なのに、肌に触れることすら望まない。 「どうしてそんなに頑ななんだ」  少し拗ねたように、自分でケーキを食べながらランファが問う。 「いや、その……なんだか、壊れちまいそうで」  その言葉に、耳を疑った。 「私が、お前ごときに壊される思ってるのか? お前はもう少し私のことを分かっていると思って──」 「ちがうちがう!」  堤は慌てて首を横に振った。 「壊れるのはお前じゃなくて、いや、確かにお前は華奢だし、綺麗だし、傷でもつけたらと思うけど……そうじゃなくて」 「じゃあ何が壊れるっていうんだ」 「だからその……俺の、理性が、戻ってこなくなりそうで……」  なんだ、とランファは力が抜ける。 「そんなことか」 「そんなことってな、怖いんだよ俺は。理性ってなもんは、失くしちゃだめだろ。やっぱり」 「それは本能を押し殺しているからだろう。だからいざって時にタガが外れると危ないんだ。普段から少しずつ出して、本能はきちんと躾けしておくべきだね」  それは、そう出来たらどれほど良いだろうと。思って……。  思って……──。 「っ! 堤! そんなに! あぁ、ごめんよ。私が悪かった。言い過ぎたよ。お前の気持ちが分からないわけじゃないんだ!」  ポタ、ポタ、と。堤はそれほど表情を変えずに、うつむいた顔からは頬をつたうことなく涙がおちる。 「ごめんね。……私もね、本能が、恐ろしくなることはあるんだ。ただ、それを開放する場所を少しずつ見つけていって、それで今があるだけなんだ。なのに、ごめんね」  大きな背中を撫でて、静かに、寄り添う。 「理性を大事にしてくれてありがとう。でも、それではいずれ、お前が疲れてしまう。だから、これ以上飼い馴らせないほど大きくなってしまう前に、それを外に出せたら、……出せる場所が見つかると、いいね」  本当は、そのために私がいられたら良いのだけれど。 「……もう、無理は言わないよ。ただ、疲れてしまったら、私のことを思い出して」  堤は何も言わずに頷いた。  けれど、その次の月──いや、既に彼が娼館を訪れる回数は月一回よりも増えていたが。どれほど忙しくても必ず月に一度は顔を出していたものが、ぱったりと来なくなったのである。  当然、ランファは青ざめた。普段であれば忙しいのだろうとか怪我をしたんじゃないかと考えるが、自分が彼を傷つけるようなことを言ってしまった後から来ないのだから、自分のせいだと思った。それでも念の為、怪我をしていないか調べてくれるようプラムに頼んでいた。 「なんか……普通に仕事してたよ」  その返事がこれである。やはり自分のせいで来ないのだろう、とランファはますます落ち込んだ。 「忙しそうではあったけどね。最近はちょっと大きい仕事も任されてるみたいだし。ていうかボクこれから大学の用事あるんだけど……相談ならペオニアとかにしなよね」  ペオニアに相談すると堤に対して怒り出しそうなので言いにくいのである。 「え? ペオニアに言いづらいの? じゃあもうユーダリルとかに言えば良いんじゃないの? とにかくボク、研究発表あるから! これから急いで結構遠い街まで行ってしばらく帰ってこないけど、帰ってきたら聞いてあげるからそれまでは頑張ってよ!? 行ってくるからね!」  心配そうにしながらも、プラムは出かけていった。  仕方がないので、娼館の五人目の男娼、ユーダリルがいる部屋の戸を叩く。けれども返答はない。日中のほとんどを寝て過ごし、夜もあまり動かない植物のような人物がユーダリルである。  ランファは諦めてふらふらとフロントにいる老婆のところへ向かった。 「話し相手がいないからってあたしのところに来るようになっちゃお終いだね!」  そう言いつつも、紅茶を入れて話を聞く態勢を整えてくれる。 「……堤が、全然来ないんです。知ってると思うけど」 「確かにねぇ。この間まで随分熱心に通ってたのに先月の頭からぱったり来てない。あんたなんか余計なことでも言ったんじゃないかい」  図星をさされてますます落ち込むランファに呆れながらも助けを出してやる。 「お客さんのことはどうこう出来ないけどね。あんたがめげてると儲からないし、仕方ないから遊び相手くらい探してやるよ」  実際の所、ランファの稼ぎは大きかったが他の男娼も一度でかなりの額を稼ぐため、それほど稼ぎに影響が出るわけでないことは老婆はもちろんだがランファも分かっていた。なのでこれは老婆なりの優しさである。 「最近はあんまり遊びに出て無かっただろう。リストが結構たまってんだよ」  戸棚から出した紙には名前と住所、仕事先、それから顔写真が貼られていた。 「なんなら2、3枚持ってくかい」 「……5枚ちょうだい」  うつむいたまま手を出して、老婆から5枚のリストを受け取る。 「証拠は消してやるけど、あんま無茶すんじゃないよ。あんたが怪我しちゃっちゃあ元も子もないんだから。それで入院でもして、例のお気に入りとすれ違いになってもあたしゃ知らないからね」 「うん。ありがとお婆ちゃん」  ぼそぼそとお礼を言い、一度部屋に戻る。  今回は本当に趣味のために出かけるから服装は前回よりも楽に、かつ汚れても着替えやすいものにしよう。そうだ。ちょうど今晩は雨の予報だった。合羽を着ていこう。  透明な雨合羽。となれば中は血の色が目立ちにくい黒の服がいい。 「……黒いの、全部洗濯しちゃってたな……」  まぁ白でもいいか。二枚持って行って汚れたら着替えればいいし。どうせこれから行く街じゃ通報する人間も、駆けつける警官もいない。夜に、雨の中を血まみれで歩いたとて遠巻きに見られるだけだ。  薄暗い雨雲を遠くにみて、きっと一人目が終わる頃にはいい雨が降っているだろうと予想する。 「さぁて、誰から殺ろうかな」    *** 「おい堤、最近どうしたんだよ」  小さな事務所のような所で、平津は堤の脇腹を肘でつつく。 「え……何がですか?」 「何がですかって、最近全然行ってねぇだろ。例の店」  サングラスごしに睨みつける目は、不思議と静かだった。 「……はい」 「なんかあったのか?」 「その……俺、ランファの前で、ちょっと、な、泣いてしまって……」 「は!?」  平津はバカでかい声で驚いた。 「それ以来ちょっと、会いづらくて……いえ、たぶんランファがそんなこと気にしてないのはわかってるんですけど」 「おま、そんなことで会えなくなってんの!? ていうか何されたんだよ! お前が泣くって!」 「せ、先輩ちょっと、声が……! あんまり泣いたとか言わないでくださいよ……!」 「うるせー!! お前そんなくだらねぇこと言ってねぇでさっさと会いに行けよ! 絶対あいつの方が落ち込んでんぞ!」 「え……?」 「お前、自分が気に入られてる自覚ねぇのか!?」 「いやでも、ランファは人気だし、別に俺なんかがしばらく行かなくても何も変わらないんじゃ……」 「かー!! なんっも分かってねぇ! とにかく会え! 会わないってんなら俺が無理やり連れてってやる!! 行くぞ!!!」  ソファから勢いよく立ち上がり、堤の首根っこを掴んで引きずろうとする平津に慌てて言う。「待って下さい! まだ仕事が!」 「そんなもん知るか!!」 「ダメですダメです! 後で、いや今日中に絶対会いに行きますから! 落ち着いて下さい!」  その言葉を聞くと、パッと手を離して再び睨みつける。 「本当か?」 「約束します」 「ならよし」  こうして一先ず落ち着き、一刻も早く仕事を終らせるべく、彼らは乱れたスーツを直して書類仕事へと戻った。  仕事の合間、堤は娼館のフロントへと電話をかける。いきなり行ったのでは迷惑だろうと思い、少しだけ会わせてくれないだろうかと言うつもりで。  けれども、フロントの老婆の返事はこうだった。 『ランファならお前さんが来ないから落ち込んじまって、さっき憂さ晴らしに出かけたばっかりだよ。今日は帰らないんじゃないかね』 「え……ら、ランファが落ち込んで……?」 『そーさまったく。まぁお客さんがランファと会わないつもりじゃなくて良かったよ。明日の夜にゃ帰ってるだろうから、ランファには電話があったと伝えとくよ。他になんか伝えることは?』 「あ……いえ、会った時に直接話そうと思うので、とにかく明日の夜には必ず行くと伝えて下さい」  そう言って、電話を切った。  憂さ晴らし……一体どこに出かけたんだろう。普通なら居酒屋に行ったりカラオケに行ったりするのかも知れないがランファの場合、酒はそれほど好きではないと言っていたし、およそ一般的なストレス解消の方法がイメージに合わない。  もしかして店とは関係ない所で性行為を……? 無いとは言えない。彼だってたまには自分がもてなされる側として楽しみたい時もあるだろう。  考えれば考えるほど分からなくなり、もやもやとしながら大急ぎで仕事を終わらせた。  店に行ってもいないと分かっていながら、居ても立っても居られず来てしまった。 「あんた、悪いけどランファがどこに行ったかは教えらんないよ。一応店の子を守る義務があるからね」  老婆は呆れたように言った。 「すみません。分かってはいたんですが……あの、いつごろ帰ってくるとかは分かりませんか」 「少なくとも今晩は帰ってこないよ。会いたいなら明日だ。明日来な。時間は空けといてやるから」 「……ありがとうございます」  その後も、堤は自分の家に帰る気になれずふらふらとネオン街を歩く。  夜の街は決して治安が良いとは言えなかった。昼ですら安全とは言い難いというのに、夜になれば見るからに危ない人間が増えていき、酒や薬で理性の薄くなった者がうろついている。ランファもこの街のどこかにいるのだろうか。彼は誰の目から見ても美しいというのに、こんな夜に出歩いていて危ない目にあったりはしないのだろうか。  そういえば……この間、仕事の後に偶然会った時も一人で出歩いていたようだった。いつもとは違って色気のない服装は、返って彼の妖しい艶めかしさを助長しているようにすら思えた。  今、彼はどんな服を着て、どんな表情で、何を思って街を歩いているのだろう。  ぼんやりとしたまま、堤はあてもなく街を歩き、そのうち雨が降ってきたので、近くにあったバーで雨宿りをしようと小走りで扉の前に立ち──。    ***  堤が仕事を急いで終わらせていた頃、ランファは二人目の人間で遊び終わって。3人目のところへ向かうために街を歩いていた。  あちこちにあるネオン看板は人々を照らして、誰も彼もを色気違いにさせる。だからランファの白いシャツについた赤黒いシミも、乾き始めている茶色いシミも、それほど目立たなかった。強いて言えば予想していたよりも雨が降る時間が遅く、透明なカッパを着ている姿が少し異様だったかも知れない。けれどそれも、この街においては大した異常性をもたなかった。 「次はどの人に行こうかなぁ……」  すでに終わった二人のリストには、顔写真に赤いバツ印がついている。残る3枚を見て、ランファはにこやかに笑った。  リストのうち二人は、知り合いでよく一緒に酒を飲んでいるらしいことが備考欄に書いてあったことに気づいたのだ。  そろそろ夜も更けてきて、盛り上がりには丁度よい頃合いだ。 「派手にイこう」  ランファは静かに店の前に立ち、今一度リストの顔を確認する。このバーがどうやら二人の行きつけの店らしい。  極普通の客を装って、店に入るとマスターがいらっしゃいませ、と野太い声でいった。  どうやらあまり優良店ではないらしい。などということは入る前から分かっていたことだが、客層を見るにどうも顔に傷やら縫い目やらが多く、出来たての傷を今まさに拵えているらしい客までいた。 「お客さんみたいに綺麗な人は中々来ないんでね、少しびっくりしましたよ」  マスターはグラスを拭きながらランファに話しかける。後ろの方から聞こえる怒号はまるで無いものとして扱われているらしい。 「おやおや、褒めたって何も出てこないよ」  ランファはカッパを脱いで椅子にかけながら、満更でもなさそうに返事をした。  薄暗い店内で、けれどもカウンター席はそれなりにライトが照らしている。つまり、マスターにはランファの顔も、その服に付いている異様な染みも見えていた。だからこそ、余計なことは言わずに頼まれた酒を提供し、ほんの当たり障りのない話だけをした。 「酔っ払いがうるさくてすみませんね」  後ろをちらりと見て、マスターは無表情に言った。 「いやぁ、あれくらい元気な方が、私もやりやすくて良いよ」 「これは困った。お客さん、うちの店で遊ぶつもりですか」 「えぇ、少しだけ。ダメかな? 面白いショーになると思うけど」 「駄目というわけではないんですがね、最近ちょっと高い酒を仕入れたもんで、それを割られると酒好きの私としては……あまり良い気はしないんですよ」 「あぁ、なるほど。それは気をつけよう。私は、酒は詳しくないんだけれど、あぁいうのは長い時間かけて美味しくなるらしいから、そういうものを壊してしまうのは私としても本意ではないんだよ」 「それは良かった。酒にさえ気をつけてもらえれば、うちとしては多少の汚れ掃除は慣れてますから好きに楽しんでもらって結構ですよ」  そうマスターが言った後、すぐに後ろから声がかかる。 「おう、ねぇちゃん、一人で飲んでないでこっちに来いよ!」  待ってましたという顔で、ランファは椅子を回転させ声のした方を見る。 「おぉ! べっぴんじゃねぇか!」  ボックス席の酔っぱらい達はランファの顔を見て大いに沸いた。 「お兄さん方、申し訳ないけど私は『ねぇちゃん』じゃないんですよ」 「なんだってかまいやしねぇよ。ほら、おごってやるからこっちに来いよ!」  酒を飲んで大きくなった声は、ランファの脳を刺激する。 「……じゃぁ、お言葉に甘えて」  椅子を降りると、ショートパンツから黒いタイツをぴったりと身に着けた足がのぞく。ヒールがほとんどなく浅い靴は、ふととももから足首までのラインがはっきりと分かり、歩くだけで思わず生唾を飲むほどの色気だった。 「お隣に座っても?」 「あ、あぁ、もちろんだ」  ボックス席のソファに座ると、隣と前にいる男は一層顔を赤く、声を大きくして酒を頼む。 「にしてもねぇちゃん、じゃねぇんだったか。にいちゃんか! いやあ良いカラダしてんなぁ」  ニヤつきながら、肩に触れ体を密着させる。 「ふふ、ありがとう。でも、こう見えて力持ちなんですよ」 「ほんとかよ!? そんなに細い腕で?」 「えぇ、……たとえば、ここだって」  腹に手をあてて、すり、と撫でる仕草をすれば、男たちの本能が疼く。 「冗談ですよ。筋肉がつきにくい質なんでね。流石に腹筋は割れてません」  くすくす、くすくす、妖しく笑う。 「それよりこのおつまみ、美味しいですねぇ」  熱くなる男の隣で平然と爪楊枝にささったきゅうりをポリポリ食べ始める。 「……きゅうりが好きなのか?」 「食感がなかなか良いと思うんですよ。それに冷たいものをかじるとさっぱりしますからねぇ」 「そういうもんかね」  なんとなく見ていたら自分たちもきゅうりが美味しそうに見えてきて、ぽりぽりと一緒になって食べ始める。そのおかげか、幸いにもその席に座っていた男たちは少し落ち着きを取り戻し、そのまま他愛ない話を続ける。 「名前はなんていうんだ?」 「ナイショです」 「つれないな。もうちょっと酒によったら口を滑らす気になるか?」 「どうでしょうねぇ」  気がつけば、接待させる気で呼んだランファを、すっかり接待する立場になっていることにも気づかず男たちは酒を注ぎ、料理を頼む。 「あっ、このお酒おいしい」 「気に入ったのがあったか! 好きなだけ飲んで良いぞ」  わいわいと楽しそうな席。先程まで暴れていた者やら、周りで酒を飲んでいた者たちもソワソワして様子を伺っている。  前の席の男が煙草を取り出し火を付けると、ランファは少し酔ってとろけた目で言った。 「いいなぁタバコ、私にも一本ちょうだーい」 「けっこうきつい銘柄だけど、平気か?」 「平気だよー。私いつも、煙管きせるで吸ってるもの」 「そりゃすごい!」  男は気を良くして煙草を咥えさせてやり、今度は隣の男が火をつけてくれる。 「あー、いい空気……」  煙を吐きながら、ランファは店内をもう一度ぼんやりと見渡す。 「……これ吸ったら、そろそろ遊ぼうかなぁ」  そのぼやきに男達はますます落ち着きをなくす。 「遊ぶって? この店でかい? それとも、他のもっと楽しいところに行くって意味かい?」 「うふふ、期待してるところ悪いけど、この店でだよ」 「へぇ、もしかして、やっとそのカワイイ柄のシャツを脱いでくれる気に?」  赤と茶色のまだら模様は、確かに可愛くも見えたのかも知れない。 「そうだねぇ……シャツを脱いでも良いんだけど、その前にちょっとしたショーをやろうと思ってね」 「そいつは楽しみにしてもいいのかな?」 「……お兄さんたちは、沢山おごってくれたし、観客として楽しませてあげるよ」  にこっと笑って、ランファは煙草を咥えながら自分の太ももをまさぐる。その仕草に隣の男はうずうずしながら見守って、そして、息を呑んだ。  少し反り返った刃先に奇妙なフックのような形状をした小さなナイフは、単純に護身用としてもつには、切れ味も悪く使い勝手は最悪だろう。何かを『解体』するのでなければ。  もう一方の手にある小さく鍔のない小刀も、それは投げるために作られたナイフであって、素人が簡単に扱えるものではない。 「……酒が不味くなるようなショーは勘弁してくれよ?」 「私にとっては酒を飲むより楽しいことさ」  そう言って、煙草を消すとランファは近くまできていた二人組みに声をかける。 「喧嘩は終わったのかい?」  驚きつつも、彼らは嬉しそうに答えた。 「いやぁ、それより楽しそうなことをするみたいだからさぁ」 「そうそう、そこだけで楽しんでないで、俺たちも混ぜてくれよ」  それを受けてランファは嬉しそうに少し腰をあげて言った。 「もちろんだよ。主役は君たちだもの」 「え──?」  次の瞬間、二人は床の上でのた打ちまわっていた。片目に刺さったナイフをどうすることも出来ずに呻きながらボタボタと血を撒き散らす。 「ぁあああっ! いたい! いたいぃいい!」  傷口を抑えようにも目に突き刺さっている以上それも出来ない。二人は残っている片方の目で必死に状況を理解しようとした。だらだらと汗と涙を流しながらランファを見上げる。 「ほら、這いつくばってないで、どっちが先に愉しませてくれるの?」  そう言うと、片方の男が必死に助けてくれと懇願する。 「じゃあお前は後にしてあげよう。でも、逃げないでね?」  ランファはなめらかな仕草で後回しが決まった方の男の肩に優しく触れる。すると一瞬男は痙攣し、すぐに動けなくなった。 「じゃあ、大人しく待っててね」  満面の笑みでランファは立ち上がり、パニックになって逃げることすら出来ていない男の方へ向き直り、片手で持ち上げるとカウンターへのせる。 「それでは、お集まりの皆さんどうぞ人間の解体ショーを御覧ください!」  スキナーナイフを掲げてランファは言い放った。 「は、はなせ! やめろ! やめてくれぇえ!」 「あはははっ! もっと啼きなよ!」  暴れる男の首を締め上げ、両腕を折り、太ももにある血管をナイフで横に切り裂く。 「すぐには死なせないよ。ゆっくり遊ぼうじゃないか」  男の灰色のズボンには赤色の染みがじわじわと広がり、そのうちそれ以外の汁もガクガクと痙攣する体からにじみ出ていく。 「怖い? じゃあもっと足掻いておくれ」  ランファは自身もカウンターへ上がり、膝をついて男に跨がりサクサクとナイフをいれる。 「あぁあああ、うぅうあ、あぁあああ」  もはや言葉も出ない。痛いということすら分からない。男の頭の中は真っ白でひたすらここから逃れたかった。けれど、ランファはテーブルを血まみれにしながら、その血飛沫は天井まで飛び散り店内を朱に染める。しっかりと握られたナイフは大量の血にも滑ること無く男の体を切りすすめていった。  じわじわと皮をいて、途中で少し大きなナイフに持ち替えながらやがてあらわになった心臓を見て、返り血で真っ赤になったランファは嬉しそうにそれを眺める。  グロテスクな死体と、恍惚とした表情でそれを見つめる美しい青年。 「……美しいでしょう?」  今度は、動かなくなった死体にではなく、それを見ている観客に対して。静まり返った店内にその声はよく響いた。  カウンター・テーブルに座る血まみれの青年が、どう見えただろう。  少なくとも、誰一人としてそれを止めようとするものはいなかった。  ただ、問題があったとすれば──それは、窓に、雨のあたる音が聞こえ始めたこと。    ***  堤はどこかぼんやりとしたまま、ネオン看板の光るバーへ向かった。  入る店はどこでも良かった。雨宿りをする分には屋根があればどこでもいい。酒が出る店なら少し呑んで時間をつぶすのも良いだろう。  酒はそれほど好きではなかった。飲んでもたいして変化がなく、周りの人間のようにタガを外すことも出来ず、飲む意味を感じられなかったのである。美味くも楽しくもないのに、それなりに値の張るものは興味の対象にすらならなかったが、ランファが時々なら飲みたくなる酒があると言っているのを聞き、その酒なら是非飲んでみたいと思った。  欲を言うなら、彼と一緒に飲みたいのだが……。と、酒に酔ったランファを想像し、堤はブンブンと首を振った。変な妄想はやめにして、たどり着いた店のドアハンドルに手をかける。  キィ、と扉がきしみながら開く、どんな店だろうかと伺いながらそっと店内に入ろうとした時。何かが顔に跳ねた。液体だということは、すぐに分かって──。  ──赤い。お前は、何者だろう。  黒い髪は赤みを足して暗い真紅に染まり 白い肌は目の冴えるような朱に染まる  桃色の唇は毒々しく照り その隙間からのぞく薄紅色の舌は赤い血を舐め取ってより赤く  黒い瞳だけがその色を変えること無く 薄く 楽しげに笑い しっとりと酔う  手に持っている赤いそれは 心臓 と呼ぶのではなかろうか  朱殷しゅあんに染まった薄暗い店の中でお前は何を呑んだ 何に酔っている?  あぁでも お前が心地よさそうだから  お前にそのおぞましい赤があまりにも似合っていたから  お前が あまりにも 美しかったから──  カツン、とナイフの落ちる音がして、ショーは突然の終わりを告げた。  主役の彼が──それは死体の方ではなく、それを捌く美しい青年のことである──扉の方を見つめて動きを止めたので、観客もやっとその存在に気づいた。  きっちりと着たスーツの肩を少し濡らしている、窓に当たる雨音がその犯人だろう。雨宿りのために訪れたのかもしれなかった。ぼんやりと、皆がそれを思い、けれども誰も何も発することはなく、動くことも無かった。  時間が、止まっているかのように。  開いた扉から冷たい風が入り込み、熱気に狂った店内を少しずつ現実へと引き戻す。  先に声を出したのは堤だった。風に押されて扉が締まり、血で満たされた床の上を歩いて、まるで水たまりの上を歩くような音がした。革靴に血を吸わせながら、ランファの側へと静かに向かって。 「やっぱりお前は、赤が似合うな」  呆然とするランファに、堤は微笑んでそう言った。  全身が真っ赤なランファ、顔も服も手も足も、全てが赤い。その中で、血を舐め取られた唇の色だけはわずかに淡く、濡れていた。  血まみれの頬に触れ、優しく、やさしく、赤いそのひとの唇に自分のそれを重ねる。  赤が移る……むせ返るようなくれないの色は男の理性を破壊して、化け物のような本性をさらす。 「ぁ、あ、つつ、み──」  抱きしめれば、じわじわとスーツに血が滲んでいくのがわかる。けれども離そうとは思わなかった。 「ランファ、ランファ……!」  名前を呼ぶと、その細い腕はやがで自分を抱きしめ返す。真っ赤な腕が、愛しそうに俺を抱く。 「つつみ、わたし、さみしかったの。会いに来てほしかったの」 「あぁ、ごめん。待たせてごめん。もう、壊れることに怯えるのは辞めにするから」  二人は互いに見つめ合い、その本能を愛する。

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