04話 遊びに来た
あらすじ
高校生になり、友達と部活動見学に向かった一信《かずのぶ》。弓道部に入ろうかと考えて、人だかりが無くなっても見学を続けていると優しげな部長から声をかけられ道具を見せてもらえることに。そこで遅れてやってきた三年生の先輩 高木(たかぎ)と出会う。
物憂げな表情で無口な高木は、冷たい印象を受けるが一信は次第に彼の優しさに気づいていく。弓を引く姿の美しさに惹かれ、高木自身へも惹かれていく一信。最初は困ったようにしていた高木も少しずつ心を開くようになり、明かされていく高木の危うさ。人間の醜さ、鬱屈を想いながらも、少年たちが愛とは何なのか考えていく物語。
【遊びに来た】
「お、お邪魔します……」
どきどきしながら一信は足を踏み入れた。一人暮らし用のマンション。それほど広くない玄関に、すぐキッチンが見える。自分の家とは全く違う間取り、ここに高木が一人で生きているんだという実感が湧いてくる。まるで大学生の部屋に来ているような感覚になって、きょろきょろと落ち着かない。
それを少し可笑しそうに見ながら、高木は部屋の電気をつけて、玄関の鍵を閉めるようにと伝えた。
「あ、これ、母さんからです」
そう言って差し出された紙袋を高木は観念して受け取る。
「一緒に食べなさいって言われて、先輩も好きですよねレモンケーキ」
「そうだ。お前のせいで俺の体内はどんどんレモンに侵食されていってるからな」
そのうち髪が黄色くなっちまう、と軽口をたたきながら自室の扉を開け、一信を中へ入るよう促した。
物の少ない片付いた部屋。ベッドと机、それから壁を占領している本棚だけが威圧感をもっている。
「あれ、道着とかはどこに置いてるんですか? クローゼットとか?」
「弓具は全部押し入れに入ってる。ちょうどいい物置きなんだよな」
「湿気とか大丈夫なんですか?」
「乾燥剤をいれてるよ。時々開けっぱなしにして風も通すようにしてるし」
会話をしながら折りたたんでしまってあったローテーブルを出してきて、開き、一信にレモンケーキを出すように言った。
「俺はなんか飲み物とってくる」
「ありがとうございます」
さて、部屋を出てキッチンにある冷蔵庫を開けながらどうしたものかと思案する。一信はすっかり映画を見る気で、いくつか借りてきたDVDのどれが良いかと考えている。かくいう俺は、やつの清潔さにもだついている。
レモンアイスを食べた日のお前はいったいどこへ行ったんだ。
鼻血を出した俺を見て欲情していた、かわいらしいお前は。
「先輩」
ひょこっと扉を開けて顔をのぞかせた一信は少し焦ったような顔をしていた。
「先輩の家、テレビってないんですか?」
「あ……あぁ」
そう。テレビはない。けれどもパソコンでもDVDは見れる、ということを一信は知らなかった。
だから、焦ったのだ。
(確かに一昨日、映画でも借りてこいと言っていた。てっきり先輩の家で一緒に見ようという意味しかないと思っていた。見れないのを分かっていてそう言ったのか? なぜ? 他の物を持ってこさせないために、時間を持て余すために?)
一信は、思い至らなかったのではない。
清潔な思考をもっていたわけではない。
努めて考えないようにしていた。邪なことは、彼にとって数少ない恥であり、また、一度意識してしまうと愛しい人の足の先から髪の毛の一本にいたるまで全てに欲を抱くほど苛烈な情であることを自覚していたから。
乱れて制御がきかなくなった思考は己の顔を羞恥に染める。
薄暗いキッチンで、どうかそれに気づかないでくれと頼んだ。部屋から漏れる明かりが疎ましい。どちらにせよ隠すことなど出来ないが、見られるのは恥の上塗りである、と。
混乱した思考は支離滅裂に行き交った。
熱い頬に、冷たい手が触れる。
「一信、お前は、どうしたい?」
その瞳には罪悪感が滲んでいる。辱めてしまったことへの後悔と、同時にそれを許している慈愛のようなものとが、この人の表情を歪ませる。
少しだけ眉をひそめ 口元には微笑みを
けれど 暗がりで反射する瞳は
熱を帯びてはいなかった
僕のそれとは違って
「……ダメです。先輩」
そいつは目をそらして言った。
「一つ手に入れると際限なく欲しくなる。僕、先輩が思ってるより先輩のことが好きなんですよ」
俺が触れた手から逃げるように後ろへ一歩。
「本当は、今すぐあなたをここで裸にして無理矢理にでも犯してしまいたいくらいに。僕はおかしいんです、昔から。だから、抑えておかないとダメなんです」
そいつの頭の中には、嫌がっている俺がいた。けれどそれは間違っている。
「……かまわない。そうしたいのなら」
「あなたが構わなくても、僕は嫌です。それは、愛ではないでしょう」
今度はまっすぐに目を見て言ってくるものだから、よくそんなことを恥ずかしげもなく言えるものだと思いながら、俺はそれを否定した。
「肉欲も、一つの形だろう。そしてそれを受け入れるのもまた一つの、愛だ。違うか? 少なくとも俺はお前に欲を向けられることは了承している。そして、お前が俺の他の部分も大切に思っていることも、よく知っている。だからむしろ、お前の思考を抑えつけることのほうが俺は嫌なんだ」
暗がりで愛について議論する二人は根本から行き違っていた。
一信にとって愛とは神聖さを持つものであり、人間である以上欲が伴うのは自然なことではあるが、それでもそれを一方的にぶつけることは愛を汚すことだと考えていた。
対する高木は、端から愛そのものを俗物的なものとして捉えていた。故に高木の愛は広い範囲で適用され、それらの区別は非常に曖昧なものでしかなかった。
更に高木は、思考を読めるが故に決定的な勘違いを犯しているのだが、未だそれに気づかず、自分の欲を抑えようとする一信に苛立ちを覚えていた。
「もしも俺にこんな能力がなければ、きっと好きなだけ頭の中で俺に触れただろうに」
そうして言ってはならないことを言ったのだ。無意味な仮定を。
一瞬の間 傷ついた顔
すぐに後悔したが、もう遅かった。
「……確かに、そうかもしれません。でも、僕は、……あなたにその能力がなければ、と思ったことは、ないですよ」
一信は目を伏せて、唇を噛み締めた。彼からすれば、自分の思考や行動のせいで彼にこんなセリフを言わせてしまったのだと責めずにはいられなかったのだ。
自分だけは、この人の能力を恐れることなく、この人を能力によって苦しめることがないように、この人が自分を蔑むことなどないように、ともすればそんな能力があることなんて忘れてしまえるように、そんな存在として側にいたかった。
でも実際は恐れていた。
その人を、ではない。その人に、自分の醜い部分を知られることを。
そのプライドが──高木はそれを優しさと取っただろうが──邪魔をして、結局傷つけてしまったことが、痛かった。
「わ、るい。今のは、俺が悪かった」
高木は真っ青になって途切れ途切れの謝罪をした。どれほど自分のことを想ってくれているか知っていたはずなのに。なぜそれらを無にするようなことを言ってしまったんだろう、と思いながら。ただでさえ人と違う俺のことを一生懸命考えてくれるようなやつなのに、その考えてくれたことを否定するなんて。
「謝らないでください。先輩は、あんまり自分のことを言わないのでそういうふうに思ってることがあったら言ってくれていいんですよ。僕は、言ってくれなければ分からないから」
「あぁ……。その、とにかく無理しないで欲しいと言いたかっただけなんだ。でも、その方がお前が平穏だというなら、もう何も言わない」
突き放すような言い方。
いつも絶対にしない直接的な物言いが増えるのは、高木自身の頭の中が整理できていないことを反映していた。
「僕も心配かけないようにしますね。でも、関係の進め方は、ゆっくりでいかせてください」
「分かった」
──この時、もう少し喧嘩をしておけば、愛について議論を重ねておけば、二人は掛け違いに気づいたかもしれなかった。
けれども、それもまた無意味な仮定である。
僅かなひずみを残したまま、秋休みがやってくる。
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