08話 一信の自覚
あらすじ
高校生になり、友達と部活動見学に向かった一信《かずのぶ》。弓道部に入ろうかと考えて、人だかりが無くなっても見学を続けていると優しげな部長から声をかけられ道具を見せてもらえることに。そこで遅れてやってきた三年生の先輩 高木(たかぎ)と出会う。
物憂げな表情で無口な高木は、冷たい印象を受けるが一信は次第に彼の優しさに気づいていく。弓を引く姿の美しさに惹かれ、高木自身へも惹かれていく一信。最初は困ったようにしていた高木も少しずつ心を開くようになり、明かされていく高木の危うさ。人間の醜さ、鬱屈を想いながらも、少年たちが愛とは何なのか考えていく物語。
【一信の自覚】
僕は自分の部屋でうずくまりながら、生まれて始めて死にたいと思った。
好奇心のままに生きてきて、反省も後悔も縁遠い思考。興味は性よりも美に向かい、あの人の静かな冷たい瞳に惹かれた。
伏せられた目が時折やさしく微笑むのを知って嬉しくなった。
弓を引く時の佇まいが、生み出す空気そのものが、永遠に見ていたいと思った。
会えると思えば熱心にあの人のことを考えたし、あの人のプライベートに踏み込むことを許されて、天にも昇る心地がした。
とうの昔に、好きだったのだ。
それは、恥じることではないだろう。
けれども。
よりにもよってどうして、あんな形でそれを知られた。
まだ、自覚した心を聞かれる方が余程良かった。
あんな、あんな反応は……まるで肉欲を求めているようではないか。
自分の浅ましさに、思い出しただけで顔が熱くなる。あの人は気にしなくていいと言った。もしかしたら似たような情を向けられたのも初めてではないのかもしれない。それでも……たとえあの人が本当に気にしないでいてくれて、何事もなかったかのように振る舞ってくれたとして、その優しさに甘えてしまえるほど自分が弱い人間だとは思いたくなかった。
「口に出してしまえば、あの人は返事をするしかなくなる」
ならば、この思考をまるごと、吐き出してしまおう。醜いのは承知の上で。
──そう決意したのが、夏の初め。
しかしそれからの数週間、先輩は遠方の友人のところへ泊まりに行くらしく、僕は気の入らないまま弓を引いて顧問に叱責される日々を過ごしていた。
伝えることを決心したとはいえ、更に言うならはっきりと伝える前にあの人に知られてしまっているとはいえ、迷わない訳ではなかった。人の心を誰より知っているあの人は寛容だ。僕がどれほど醜い様相をなしたとて、人間の浅ましさなど見慣れたことと思うだけかもしれない。
それでも……。
他の人間と同じだとは思われたくなかった。
もっと純粋な感情を向けていたかった。
情けない姿など見られたくなかった。
あの人の隣で、恥じること無く、僕だけはその特殊な力さえ恐れること無く堂々と立っていたかった。
──その思考が、すでに激しい独占欲に駆られている。
「会いたい……」
気が狂いそうだった。
自己嫌悪と恋慕、自覚は進み、考えるほど苦しくなって、ちっとも整頓できない。
いよいよ弓を引くなと怒鳴られて、僕は頭を冷やすため弓道場を出て顔を洗いに行った。
後頭部から思い切り水をかけて、ずぶ濡れになった頭を軽く拭くだけしてから弓道場に戻ると、ざわざわと様子がおかしいのに気づく。何かあったのだろうかと少し視野を広げると、その原因はすぐに分かった。
顧問の嬉しそうな声とともに飛び込んできた名前によって。
「高木、まさかお前が顔を出してくれるとは。受験勉強の方はどうだ?」
「今の成績なら志望校は大丈夫そうです。ずっと机に向かっているのもかえって捗らないので、引かせてもらっても良いですか?」
「もちろんだ! 好きなだけ練習していきなさい」
高木は一信の横を通り過ぎる。すれ違う瞬間、心臓が跳ね上がり、けれども彼は一瞥もくれず更衣室へ消えた。
動けなかった。手足が痺れるほど冷たくなっているような錯覚をおこすほどに、恐怖が頭を真っ白にする。
心のどこかで、嫌われることは無いと思っていた。優しいあの人のことだ、僕が醜態をさらし肉欲を向けたとて軽蔑されることはないだろう、と。
なぜ。愚かにも楽観できた!
あの人は優しさ故に拒絶することを知っていたのに! そしてその心の内を覗くことは出来ないのだ。
クラスメイトとも、部員とも、誰とも話さず全ての他人を諦観して押し黙るあの人が、本当は何を思っているのか、……テレパシーが、欲しいと言ったらそれこそあの人は僕を蔑むだろうか。
「一信、お前は高木とよく話してただろ。あとで引いてるとこ見てもらえ」
顧問の一言に瞳孔が開く。
以前の自分なら、願ってもないと小躍りしただろうに。
心臓があまりにもうるさく鳴り、耳が麻痺してきたあたりで、後ろの扉が開き、道着姿の高木が戻ってきた。
僕はとっさにうつむいて、通り過ぎる足だけを視界にいれた。
見れない。
全身が痺れているみたいに、感覚全てが鈍くなっていく。それなのに肌にあたる風は血が出るのではないかと思うほどジリジリと擦れる。
見れない。
弓を構えているだろう。あぁ、ほら、弦を引く音がする。
見れない──……
『見 ろ ‼』
それは突然、頭の中に響いた。自分の声ではない。思考ではない。
あの人の──!
僕は気づいたら顔をあげ、刹那、矢は放たれた。
遠くで、心地よく中る、いつもの音が聞こえた。
呆然とする僕の方を、見てはいなかった。目線は的の方を……けれども、その背中はたおやかに、ゆるしていた。
その後も、彼は振り返ることなく何本か射ち、僕はそれを見ていた。
しばらく射ち続けてからやっと息をつき、弓を置くとその人は僕のところへやって来た。
「見てやるから、引いてみろ」
「え、あ、でも、僕、最近うまく出来なくて……」
「知ってる」
顔色は一つも変えず、けれどもどこか優しさを湛えて彼は言う。
「知ってるから、うまくやれって言うんじゃない。中てられるとも思ってない。いいから、引いてみろ」
思考が、融解していく。
僕は言われるままに弓を引いた。
風を切る音がして、それは的にはかすりもしなかったけれど、なぜか失敗したとは思わなかった。
「……少しは、頭がすっきりしたか?」
「あ、ありがとうございます先輩!」
慌てて礼を述べると、先輩は少し安心したように笑った。
「その調子で練習しろ、そのうち中るようになる。もし中らなくても焦らないで丁寧に引けよ」
「はい……あれ、先輩、帰るんですか?」
その問いに答えるまでもなく踵を返し顧問に挨拶をすると、そのままスタスタと出ていってしまった。あまりにも鮮やかに無視されたので何が起きたか分からなかったが、すぐに我に返って的前を使おうと待っていた友達に弓具を押し付けて急いで追いかけた。
そんなにすぐに道着は脱げない。まだ更衣室にいるはずだ。
僕には奇妙な焦りがあった。胸騒ぎと言っても良い。
射って、礼を言った後の先輩の表情。もう大丈夫だな、とでも言いたそうな微笑み。
なにが『大丈夫』なのか? そもそもなぜ先輩は部活に顔を出したのか。少し前に会った時、夏休み中の三週間は友達のところに泊まると言っていた。だから僕はその間は自らの刑罰とも言える告白を先延ばしにされると安堵しつつ、その三週間をひどく長いと思ったのに、あの人は三日と待たずに帰ってきてわざわざ引退した部活に顔をだした。
射てないと言ったら、知っている、と。
何もかも、見透かされている。そして全てを知った上であの人は別れも告げずに帰るのだ。
「先輩」
断りもなく扉を開ける。けれども、わずかの動揺もなく、道着姿のまま座って静かにこちらを見ているその人が在った。
微笑みはなく、黒い瞳は冷ややかに。
壁に背を持たれくつろいだ姿勢で足を組み、その人は呆れたように言った。
「今ならまだ、全てを忘れてやれる」
それは最後の救済。
「今すぐその扉から出ていって、練習を続けろ。そうすれば俺は何も無かったことにして、全てに目をつぶって、お前が望むなら今まで通りの先輩と後輩でいてやる」
どこまで優しいのか。この人は、拒絶する気すら無いと宣言したのだ。願ってもない話じゃないか。先輩の言う通りにすれば、友情を失わなくて済むのだ。
あの日の恥も忘れ去られて。
そうすれば──。
そうすれば、この恋も無かったことにしてくれる。
「……先輩。ごめんなさい」
僕はぐらぐらと傾く脳みそに責任を押し付けながら、くぐもった声で言った。
「──ごめんなさい。忘れないでと言ったら、あなたは、僕を軽蔑しますか」
悲しいのか、恐ろしいのか、分からないまま。目が熱くて、頬をつたうそれが熱湯のように感じられて、火傷するんじゃないかなんて馬鹿馬鹿しいことを考えた。
黙って聞いているあなたが、どんな顔をしてるかなんて知りたくもないと思いながら尚もゆれる声で訴える。
「……それでもいいんです。拒絶されたって、浅ましいと言われたって、それでも僕は、どうしようもなく……」
「あなたのことが好きです」
最後の一息を あなたは どんな気持ちで聞きましたか
***
恋情を向けられたことは数知れず、それは性別も年齢も関係なく、またその質は多岐にわたり。憧憬が恋にかわり、時には恋が期待に、失望に、そして暴力にすらかわり、その目まぐるしさに出来の悪いコメディのようだと思ったのはいつだったか。
恋愛を、そしてそれに命がけで挑む人々を蔑むつもりはない。けれども自分とは違う世界に住んでいると思った。
俺は未だ恋を知らない。
けれど、拒むだけの理由も無かった。
ただそれだけのこと。愛も恋も、友情も恋情も俺にとっては区別のつかない情だった。俺は変わることが出来ないが、あいつも変わらなければ破綻することはない。
ならば。それで充分ではないか。
どうせ俺の心なぞ誰も知らない。
「……いいよ。お前がそういう関係を望むのであれば、受け入れよう」
俺は微笑んでいたと思う。全身をこわばらせるあいつに近寄って、ただ一つだけ甘く尋ねる。それと知れないように。
「お前は、俺を、抱きたいんだろう?」
この不埒な問はただの保険だ。
あいつは目を白黒させて混乱を極めた頭で答える。
「そ、そうです⁉ あ、いやでも、別に! 先輩に負担になるなら、僕は、ど、どっちでも……!」
これだけ散乱した思考で相手を憂う心があるとは、どうにも俺は深く想われているらしいと思いながら、色のない瞳を悟られぬよう耳元で、惑わすように。
「俺も、受け入れるほうが良い」
それならば、ただ快楽のみを思えば良かったから。恋に繋がる高揚と肉欲は知らないままに、お前の望む声で鳴こう。
お前の心を手折るくらいなら
お前の欲を無視するくらいなら
お前の情を失うくらいなら
己の曖昧さから目を逸らしてしまえばいい
一途でさえあれば 誠実でさえあれば
お前を傷つけずに済むはずだ
問題ない
問題ない
己の声など 聞こえないから
問題ない
コメント