06話 弓道
あらすじ
高校生になり、友達と部活動見学に向かった一信《かずのぶ》。弓道部に入ろうかと考えて、人だかりが無くなっても見学を続けていると優しげな部長から声をかけられ道具を見せてもらえることに。そこで遅れてやってきた三年生の先輩 高木(たかぎ)と出会う。
物憂げな表情で無口な高木は、冷たい印象を受けるが一信は次第に彼の優しさに気づいていく。弓を引く姿の美しさに惹かれ、高木自身へも惹かれていく一信。最初は困ったようにしていた高木も少しずつ心を開くようになり、明かされていく高木の危うさ。人間の醜さ、鬱屈を想いながらも、少年たちが愛とは何なのか考えていく物語。
【弓道】
三日間を僕たちはとても充実して過ごした。
先輩は学校や街にいる時と違って眉間にシワをよせることなく開放的によく喋り、よく食べた。心なしか顔色も良く、やはり普段は無理をしているのだろうということも伺えた。
変わらないのは美しい射。
それだけはいつも通りの気高さを湛え、他者の思考をも消し飛ばす浄化の矢。
これに関しては政も、弓道の師範である彼の祖父も文句なく称賛していた。先輩は同年代の者はもちろん、はるかに長く弓を引いている者ですら敵わない、とまで言われている。
僕も師範に見てもらい、アドバイスを頂いたり、夕食の時に弓道の心得について少し見解を聞かせてもらう機会があった。
「弓は元来、武器であるが、しかし良い射というのは何かを射ち取るようなイメージで出来るものではないと思っている。一信くんは射る時、何をイメージしているかね?」
「僕は、先輩の引いているところを……反芻するようなイメージでやってます」
「それは良い目標ではあるが、蘭丸くんをイメージしていては、いつまでも蘭丸くんに追いつくことは難しいだろうね。彼がイメージしているものは違うものだから」
師範は至って丁寧な口調で言った。その通りだ、と思う。
「では蘭丸くん、何をイメージしている?」
「……人の悪いことを聞きますね、師範」
先輩は静かに、少しだけ可笑しそうに、箸を止めて微笑んだ。
この人ほど和食が似合う人もいるまい、と僕は思わず見とれそうになったのはさておき、彼はこう答えた。
「何も考えていません。全てをクリアに。強いているなら己を殺すイメージでしょうか」
黒い瞳は生命の色を宿している
その両眼で 全てを殺し
そして あらゆる思考を 屍にする
僕はその回答を聞いた時、なぜこの人の射る姿から浄化を連想するかやっと分かったのだ。それは気の所為などではなく、本当に全てを消し飛ばす意思を持った矢だった。
そしておそらく、テレパシーとも関係がある。彼の射を見て思わず意識を集中させてしまう人間は僕だけではないだろう。多くの人間が放たれた矢を見て、それが中る瞬間まで奇妙な緊張を張り詰め、一体感すら持っている。部活中に何度も感じたことだ。
見ている者の行動も、言葉も、全てを奪っていく瞬間──彼は、己の苦界から抜け出す事ができる。
今は亡きあなたの祖父は、それを知っていたのだろうか。
だとすれば、その慧眼は恐るべきものだろう。そして、あなたの側にそんな人間がいてくれたということは、神はあなたを苦しめるためにその能力を与えたわけではないのだろう。
「──先輩は、邪念がないからあんなに迷いのない矢が射てるんですね」
今のにごりきった僕には、到底出来ない芸当だった。
短い休みが終わり、再びいつもの生活が始まる。先輩はいよいよ本格的に受験へ向けて面接練習や小論文演習などに時間を割くことが増えていった。
けれども、余裕なのか諦めなのか意外にも先輩から遊びに誘ってくれることもあり、僕は折を見て受験勉強は大丈夫ですかと尋ねた。
「なーんの心配をしてんだお前は、そんなにやばかったら誘わねーよ。勝とかは俺と違って忙しいみたいだけどな」
「でも先輩、勉強苦手なんじゃないんですか?」
「そう。ていうか、まぁ……気付いてないみたいだから言うけど、俺がテストすると常にカンニングしてるようなもんだからな……? なんつーか、馬鹿馬鹿しいだろ。何点とっても。そのうち自分で出した答えが何なのか分かんなくなってくるし」
なぜ、気づかなかったのか。それは僕にとってはテレパシーなど無くて当たり前だから。
「ぁ、じゃ、じゃあ受験は……!」
「勉強関係ないとこに行くことにした。面接と小論あるけど、授業は通信だから今より気楽に出来る。そんでそれやりながらもーちっと真面目に弓道やるよ」
「真面目に……? 先輩は充分すぎるほど上手いと思いますけど」
何を言っているんだこの人はと思いながら首を傾げると、笑って返される。
「真面目にってのは、段とか取ったり、そういう資格で仕事につけるような方向で考えてくってことだよ」
……この人は、当然ながら自分の人生についてちゃんと先を見ている。偉そうに心配したのが恥ずかしい。
あぁでも、邪な自分が頭をもたげる。
先輩は、大学生になっても多くの人と関わることは望まない。
ただ居るだけで人の視線をあつめるこの麗しい人は、大学という僕にとっては遠い世界の様々な人間の巣窟へは行かない。
そんなことに安堵する狭量な自分が嫌だった。けれども、秋休みに政の家で過ごした時でさえ本当は気が気じゃなかった。確かに政は堂々としていて年下の僕にも偉ぶったりせず対等に接する。弓を引くのも見せてもらったが、その姿勢からでもよく分かる。芯の通った人間だ。
だからこそ! 不安にさせられる……。
僕よりも、彼のほうが魅力的な人間ではないか……?
先輩は僕を受け入れると言った。けれども、僕を求めているわけでは無いのだ……。あの人にとって、僕はなんだ……?
不安が、新たな不安を呼びそれを加速させる。
僕はあの人が着替えているのを見ればすぐに目をそらし、一緒に風呂に入るとなればその事実だけで気もそぞろになる。当然、見ないように必死になって。そのうち脳内で素数を数え始めるところだった。
浴衣を着ればいつもと違う姿に心臓がうるさくなったし、隣で寝ていると思うとそれだけで眠りが浅くなる。
あの人は、この気が狂いそうな感情をわずかでも理解しているだろうか。
恋人の裸を見て眉一つ動かさないあの人が、本当に恋を知っていて、僕を受け入れたのだろうか……?
あの人にとって 性とは そして 愛とは
──一信は、これまで自分と他人を切り離した思考を持っていた。他者を傷つけないことに気を配ることはあっても、それはごく最低限のラインでしかない。また、自分が他者に与える影響という点のみが気をつけなければいけないことだった。しかし、高木と出会ったことで自分が他者から受ける影響、他者からどう思われるのかという得てして測りづらいものを気にするようになった。それまでの彼にとって性の話は恥ずかしいものでは無かったし、嫉妬や恐怖などの感情も人間として自然で興味深いものだと考えていた。
それが高木と出会ったことにより、非常に人間臭くなっていた。
そして聡い精神がそれを次第に自覚させ、戸惑わせる。
「……同じくらいに好きになって欲しいなんて、……もしも、そう言って、哀しそうにあなたが微笑んだら、もしもそれで、謝ったりなんかしたら、僕はきっと、死にたくなる」
恐ろしくて、傷つきたくなくて、更に頭の中にノイズをかけた。
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