第三章 手紙
あらすじ
同じ高校に通っている二人の少年の物語。
教師から不良というレッテルを貼られた八雲《やくも》は、自分とは正反対の優等生と言われている尊《たける》が授業をサボっているところに遭遇する。
話してみると意外にも気が合って、すっかり仲良くなった二人はよく遊ぶようになる。
八雲は次第に、尊の死んだ姉のこと、拭うことの出来ない孤独感を抱えていることを知っていく。哀しげに笑い「故郷なんか、ない」と告げる尊はどこへ向かうのか。
ディアスポラ(=離散した人々)という言葉を知って書いた作品です。
【第三章 手紙】
高校を卒業し、俺と友人は屋上という居場所を失ってから一年が過ぎた。
そんな十九歳の夏、俺は一通の手紙を受け取った。
綺麗な字で書かれた短い手紙で差出人の名前も住所もなく、それはあまりにも一方的なメッセージ。
『八雲 健 様
僕は 帰ります
君のように煙草を吸っても 息を吸えそうにないから
それでも屋上で 君の隣で吸った煙草は 少し美味しかったように思います
ありがとう』
俺は差出人がどこへ帰ったのか知っている気がした。でもそれを確かめようとは思わなかった。
手紙から香る現実を受け入れられず、たった三行の本文と最後のありがとうという一言を何度も読み返しては夢の向こう側に消えてしまったお前を思って日常を生きている。
仕事は順調で、職場の仲間も親切にしてくれる。俺が元気がないのを察して理由も聞かずに高い肉を奢ってくれるような人たちだ。
俺には、この星につなぎとめてくれる仲間がいる。
これ以上母親に迷惑をかけたくないと多くを望まずおよそろくな連絡手段も持たぬまま一人で遠くへ行ったお前に、俺はどんな後悔をすればいいのかも分からない。もっと頻繁に手紙を書けば、住んでいる寮にしつこく電話でもすれば、それとも……お前が東京に行くことを止めていれば、俺たちが一緒に酒を飲み交わす未来もあっただろうか。
お前は東京へ行くと言った時、きっとどこか期待していたはずだ。こんな田舎とは比べ物にならないほど沢山の人間がいて、そこには色々な星で生まれた色々な国の色々な人間がいるだろう。けれども、東京という人種のるつぼですらお前の同胞は見つからなかったのか。それならどうして、たった一年でそれを諦めてしまったのだろう。
もはや、探し続けることすら苦痛だったか。それとも、あと一日でも留まることが耐えられないほどこの星の空気は不味かったのか。
いつか、お前と夜中の学校に忍び込んで、屋上の月明かりの下で思い出話に花を咲かせたかった。
けれど所詮、夢は夢──俺は現に生きている。ならばいつまでも目を塞いではいられない。お前は、俺を強いと言った。その言葉を信じよう。俺は強いから、お前がいなくなった悲しみを受け入れて前へ進んでいく。まずはお前の尻拭いから始めてやるよ。黙って月から眺めているが良い。
「おばさん、たい焼き買ってきたよ」
「あら、ありがとねぇいつも」
広い家の中でたった一人地球に残されたこの人のために。何も知らないフリをして、まるで東京に行った友達がいつか帰ってくると信じているかのように振る舞わなければいけないのも、もう慣れた。
「あの子もこの白いたい焼きが好きでね。向こうにも売ってるのかしら」
もちもちとした食感のたい焼きを頬張りながら心配そうにそう言う女性は、未だにあいつの部屋を掃除して、帰ってきた時に埃っぽいと可哀想でしょうと微笑む。若く美しい母親の時間はあいつがいなくなるずっと前から止まっていたのだろう。
十一月のその日から。
夢の中を生きるこのひとが幸せなのか、月下に咲かす記憶も持たず、俺と同じようにあいつを思い留める力になり得なかったあなたを、俺はその弱さを恨んではいるけれど。それでもお前がこの人に手紙を残さなかった優しさを壊してしまいたくないから黙っていよう。
あぁそれから、一つ言い忘れていた。俺が現実を取り戻したしばらく後になって、お前が不機嫌そうに隠してしまった謎がとけたことを伝えておこう。
偶然入ったバーで流れていたBGMが好きなミュージシャンのものだったことをきっかけに女と意気投合して音楽の話で盛り上がった。歌詞についての議論になった時だったろうか、ともかく色々と話していたらその流れで恋人の話になり、女が昔の恋人の写真を見せてくれた。未練がましいと思っても捨てることが出来ないのだと笑ったその写真の中には、見覚えのある女が映っていた。
薄く笑う、お前によく似た綺麗な女だ。
それはお前の家に始めて言った時に見せてくれたアルバムに映っていた女で間違いなかった。
「これ……」
俺が写真を見て言い淀むと、意味を取り違えた返事をされる。
「なに、あんた同性愛嫌悪?」
話が合っていただけに落胆した様子はあったが、そこには強い怒りのような感情は欠片もなく、結局あんたもそういう人間なのね、とでも言いたげな諦めの混じった投げやりな言い方だった。
けれどもその時の俺にはそんなことはどうでも良く、点と点が線でつながったような奇跡を感じていた。
「あんただったのか。下らない理由ってのは……」
首をかしげる女に、写真の女を知っていること、そしてその弟と友人であったことを伝えると、女は少し言葉に詰まってから、きつい酒を頼み、思い出話を始めた。
「弟クンとも会ったことはあんのよ。数えるほどだし、あたしは嫌われてたけどね」
「あいつの姉貴に煙草を教えたのって……」
「あたしね。よく外で一緒に吸ってたわ。セックスした後に朝日みながら一服すんのが一番おいしいのよ。全身にしみる感じがしてね」
「やっぱり。あいつ、姉貴が煙草を吸うのは下らない理由だって言ってましたよ」
それを聞くと、彼女はかわいた笑い声をあげて、口角を無理矢理つりあげる。この女の心の中にも、まだ傷は残っているのだろう。それでも、他人の口からかつての恋人が生きていた証を聞けるのは嬉しいようだった。
「よっぽどあたしのことが気に食わなかったのね! ずっと姉さん、姉さんって言ってついて回ってたし、あたしが大事な姉さんを取っちゃったみたいで嫌だったんだろうなぁ」
「そんなに姉弟仲が良かったんですか?」
「そうよ。年もけっこう離れてたし、喧嘩もほとんどしたこと無かったみたいね。あのひとも酔うとすぐ弟の話ばっかりして……。それでも、生きる枷にはなれなかったみたいだけど……」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、酔って眠ってしまった女を介抱して家まで送り届けた帰り道。夜空に浮かぶ満月を見ながら考える。
『生きる枷』と女は言った。
人がこの世に留まるためには、その枷が必要なのかもしれない。それは家族だったり、友人だったり、パートナーだったりするだろう。けれども、そのどれも枷の役目を持たない時、いったいお前には何が必要だったんだろうか。
もしも、俺がお前と同じ罪を背負っていれば、お前はこの星にとどまってくれただろうか。それともあの時、理解できなくてもすぐに答えてしまえば良かっただろうか。
けれども、軽薄な賛同はあいつの苦しみを否定することになっただろう。
俺は今もお前の罪について考える。ごく普通に女を好きになり、同じ星の同じ国に生まれた女と恋愛をして、キスもセックスも出来る俺がそれを想像するのは難しいことだった。俺にとって人を好きになるのは当たり前のことですらあって、キスをしただけで吐くほどの嫌悪感を覚えるあいつの気持ちは分かり得ない。
例えば、と考えてみる。俺の感覚で仮定するならば、男にキスするようなものかもしれない。仲のいい友人でも男相手にしたくはならない。ちょっと気持ち悪くすらなるだろう。ならば、この世に恋愛対象になり得ない男しか存在しなければ、なるほど、それは中々息苦しい。などと、想像したところでお前を理解したことにはならないだろうし、それを伝える相手がいなければたいした意味もないのだとお前は知っているだろうか。
月を見上げればお前はもしかするとそこにいるかもしれなくて、お前もまた、そこから俺を見下ろしているのかもしれなかったが、俺にテレパシーはないのだ。
心も、言葉も、届かなければどれほどの意味も持たない。
俺は手紙を書いた。燃やして、煙になって、きっと月まで届くだろう。
お前の故郷に遊びに行くのは、俺には少し難しいから。
屋上から一人、空を見上げる。
【エピローグ】
誇り高き孤独を持つ友よ
雷鳴をまとい
遠吠えを知らぬ狼のごとく在れ
数多の民俗と共に生まれながら
安寧を憎み 大地にあとを残し
砂漠の向こうを恐れぬ勇敢な個
高天原を追われし 正義の御子
望月に 八重の雲を薙ぎ払いては
月を跳ぶ哀れな僕を どうか見上げて
今日は八雲と姉さんの墓参りに行った。
実の母親は一度も来ないというのに、友達と来るのは二回目だと思うと不思議な心地がする。もっとも、静かに壊れた母親になんの期待もないけれど。
想像しないわけではない。あのひとに八雲のような強さがわずかでもあれば、と。性別に関係なく人を愛した姉さんのことも、誰も愛せない僕のことも、あの人は受け入れることが出来なかった。自分の器に入り切らない現実を突きつけられた時、何もなかったことにした。
そのせいでとは言わない。言いたくない。
それでも、せめて癇癪のひとつでも起こして、拒絶しながらも、まだコミュニケーションが出来る余地があったなら。まるっきり無いことにされてしまったら、もうどうすることも出来ない。
姉さんが自分の恋人のことを話した翌朝に、いつも通りの優しい微笑みで「彼氏が出来たら母さんに紹介してね。どんな人でも良いのよ、あなたを大切にしてくれる人なら」と言った時、姉さんがその言葉を聞いて母さんのことをどこまで理解していたのか、まだ子供だった僕にはわからなかったけれど、ひとつため息をついてから僕の頭をなでてごめんねと言った姉さんは、それきり家には帰らなかった。
しばらくして、姉さんと付き合っていたあの煙草の匂いがする女が、僕の記憶の中では真っ赤な口紅と真っ黒い下着姿で姉さんとベランダで煙草を吸うあの女が、面影もないほど泣き腫らした目で、ぐしゃぐしゃの髪を気にすることもなく震える手で大切そうに小さな白い壺をもってきたのが、姉さんとの再会だった。
「喪服、似合わないですね」
そう言うと、あのひとはひどい顔で笑った。
「あなたに嫌われてばっかりだわ。でも、仕方ないわね」
結局、誰にも姉さんをつなぎとめることなど出来なかったのだろう。
それでも、僕はまだ愚かにも母に期待をしていた。
平素では優しく賢い母だったから、僕も姉さんも母のことは好きだったのだ。姉さんの命日を忘れてしまっても、僕の話を聞いてくれるだろうと信じていた。
僕が人を愛せないと言った時
それは随分と苦しんだ後の結論で、打ち明けるのも容易いことではなかったけれど、努めて平静を保って言った時
母さんは 優しく微笑んで考えすぎよと言った
そのしばらく後で同じことを八雲に伝えた時
君は雷でもまとっているかと思うほど恐ろしい形相で押し黙った
理解しようと思って、それが難しいと気付き何も言えなかった友人と、考える間もなくあっさりと僕のあり方を否定した母と、その違いは比ぶべくもない。
何を思って母はああ言ったのだろうと、今でも僕は考える。
考える、考えがすぎる、すぎるとはなんだろう。深く考えなければ人を愛せないことなど気づかなかったと言うのだろうか。それとも考えたせいで何か虚構のものを信じているとでも言いたかったのか。僕は事実として恋人を嫌悪したというのに。
恋人が出来て始めて、人間としての好意とは違うものがそこには必要なのだと知って、一人で生きていく覚悟をした。あっさりと受け入れたわけでは決してない。人並みに恋というものに憧れをもち、いつかは自分にも家族が出来るのだろうと思っていたから。けれども一度もってしまった嫌悪感は日増しに自分の中で明確なものになり、彼女と今まで普通に出来ていた会話すら難しくなった。だから彼女の気持ちも離れていき、別れたいと言ったときも何故と聞かれることはなかった。
それから好意を寄せられることは度々あったがもはやその告白の言葉すら、僕にとっては薄ら寒いものになっていた。熱のある瞳で見られること事態が恐ろしかった。
だから僕は全ての人を等しくヒトとだけ思い、丁寧に距離をもって接することにした。先生も、友人も、皆それを優しいと言ったけれど、それは違う。僕は誰も愛せないくせに、嫌われるのが怖かったから優しくしたのだ。だから八雲に憧れた。
彼は何も恐れてはいなかった。世界の全てを敵にまわしても構わないと思っているようだった。一人で生きていく覚悟があった。
嫌われないために必死で、覚悟なんかちっとも出来ない僕と、自らその道を突き進む彼とでは大きな違いがあったはずだ。幸か不幸か、彼はそう思っていなかったみたいだけど。
あまり口数の多い方では無かったけれど、その眼光が彼のあり方を物語っていたから、僕は付き合いづらいと思ったことはない。彼も、僕の言葉にならない声を読み取るのに長けていたけれど、僕からすれば彼の方がより多くを発していた。
学校で、僕が彼を見かけて目をそらした時だって、僕が辛そうな顔をしていると言ったけれど、彼もまた、諦めたような顔でほんの少しだけ笑っていたのだから。彼が自分でも気づかないうちに傷ついているのを知っていて、それでも話しかけないという選択しかできない己の弱さを呪い、自分が母親とよく似ているように思えて、死にたくなった。
それでも、僕はひとの苦悩をあっさりと無かったことしてしまうような人間にはなりたくなかった。傷つけられる怖さを知っているなら、これ以上、傷つける人間にはなりたくなかった。
あのひとが、現実を受け入れられなかったと言ってしまえばそれまでだろう。でも、卑怯なやり方だ。会話の余地など与えない言葉を、見事なまでに選び、自分は一人で狂ってしまったのだから。
一緒に、苦しんでほしかったと思うのは、子供の身勝手な甘えに過ぎなくても。
きっと僕が死んでも、あの人はそれを知ることは出来ないだろう。
それだけが救いだ。自分の世界だけで全てを完結させてしまうあの人は、一人分の世界の中で死んでいくのだろう。誰も受け入れない人間は、誰もそばにいてくれない。僕らがそうであるように、母もそうなのだ。
ただ違うのは、僕らはどこにもない故郷を探し会ったこともない同胞に思いをはせて死んでいくけれど、あのひとは自らの故郷を疑うことさえなく孤独に生きていくことだろう。
そして孤独という点においては、八雲を見ていて思うことがある。孤独でないひとなど本当はいないのかもしれない、と。君はきっと将来、人を愛し、生物として子孫を残し、誰かに看取られて死んでいくことが出来るだろう。しかし、今の君は同胞に裏切られその傷ゆえにあらゆる生き物に牙を剥いた狼のようだ。人の悪意に敏感で、覚悟のない好意には絆されない。
みんな孤独で、みんな一人ぼっちで死んでいく。
それでも受け入れた人の数だけ、華やかな死に顔になるのだろう。
だから僕は、太陽にだけ見守られて、アスファルトに華を咲かせる。
最後にもう一つだけ。
手紙はちゃんと届いたよ、八雲。ありがとう。
『ともだちへ
そっちの空気はうまいか?
お前の姉貴の彼女に会ったよ。いい人だった。お前のことを心配してたよ。お前の代わりに余計なお世話だって言っといてやった。だから気にするな。
母親のことも気にするな。
あの人は幸せな人だから。
でも俺のことは気にしてくれ。ずっとそこから俺が生きているのを眺めていればいい。見上げるのは得意だろう。
いつか、地球でも、太陽でも、月でも、火星でも良い。
同じ星の下で会おう。
八雲健』
コメント