06
※残酷な描写、性的な描写があります
あらすじ
人口の約30%が霊力を持ち、妖《あやかし》と呼ばれる人間とは異なる種族との共存が求められる社会。共存とは言うものの、霊力の少ない人間からすれば妖は脅威である。従ってそれらと対抗する術を学ぶための学校が存在する。──その中で名門校である土御門学園に所属する少年少女の物語。
本作は高校生編と中学生編で構成されている。
高校生編では、新しく生徒会に選ばれた高校一年の三丿神《さんのかみ》が、同じく一年生で生徒会に選ばれた三幸《みゆき》と出会い、どこか陰のある美しさに惹かれながら彼女の心を知ろうとする。様々な男を翻弄し、従えるために手段を選ばない三幸の真意とは……?
【6】
「あ、ぅあ、っ……、……」
甘やかな響きは感じられないうめくような女の声。板の間にぽたぽたと汗が落ちる。長い黒髪をつたい、落ちる。
「随分と手懐けてるみたいじゃないか」
低く、艶のある男の声が飛んでくる。板の間から少し離れた一段高い場所からその男は見下ろすようにこちらの暗がりを楽しげに眺めている。彼の髪が濡れているのは、きっと私をこの場においてのんびりと湯船にまで浸かってきたからだろう。
最も、ここに閉じ込められてからどれほどの時間が経ったのか知る方法はなかったが。
「学校は楽しいか?」
答えなど期待していない声で問われる。笑い飛ばしてやりたかったが、もはやその余裕もなかった。今はただあの男の縹色をした浴衣の袂がわずかに揺れる様を意識の端におくだけ。
女の薄い肩には、齶鬼の鈍色の爪が食い込み皮膚が裂けて血がにじんでいる。鰐鬼が体を動かすたびに傷口は広がり、じくじくと痛む。ほとんど体を持ち上げられている状態で、女の体が小さく軽いために腕は千切れずに済んでいるようなものだった。けれども肩の痛みなど容易いもので、それよりも体を貫かれるような下腹部の激痛が女の意識を危うくさせていた。二メートルを超える鬼の巨体に軽々と持ち上げられて玩具のように動かされる苦痛は、精神的な屈辱など思う余地もなかった。ひたすら痛みにうめき、それでも意識を手放してしまえばそれこそ骨の幾本かは折られてしまう危険があって必死に目を開く。
あの男からすれば、私の体が少々壊れたり欠けたりしたところで大して困りはしないのだ。あの男、どころか私を取り巻く男の多くがその程度のことはどうでも良いに違いない。
「失明したからもう少し大人しくなるかと思ったら、変わらず女王様みたいにしてるらしいじゃないか。この間はBクラスの馬鹿を黙らせたって?」
「ぅ、ぐぅ、あ……」
「まぁお前がそんなの相手にしないのは知ってるけどな? でも最近は他のお気に入りもいるんだろ? 三丿神だっけ。あんな偏屈な家と付き合ったって旨味は少ないだろうに。心変わりか?」
「あ、ぁあ……っ」
「どんな男と寝たって構いやしないがちゃんと帰ってくるところは間違えないように躾とか無いとな。分かるだろう、三幸」
「あ、あぁああああ!」
鰐鬼が三幸の中で果て、悲鳴が部屋に響く。用済みになった体を鬼は手放し、そのまま板の間に打ち付けられる。全身が痛み、熱く、足先は痺れてもう感覚が無かった。ほんとうに千切れてしまったのでは無いかと思うほど、太ももの付け根は燃えるように熱い。体の中に出された鰐鬼の体液が溢れ出しているが、それらが冷たく感じるほど傷が熱を持っていた。立ち上がるどころか動くことも出来ない。
「あんまり移り気が酷いと今度はその四肢を奪ってやりたくなるから、気をつけてくれよ。俺だってできればお前を閉じ込めたくなんかないんだ。好き勝手やってるのを視るのも楽しいからな」
本当にそうなれば、私の父は理由もわからずそれを了承してしまう。それだけは避けねばならなかった。この男にこれ以上好き勝手させる口実を与えてしまえばもはやどこへも逃れられない。もう少し愚かな男ならやりようもあるけれど、未だこの男をほんとうの意味で操れたことなどないのだから。
「もっと他の妖もお前と遊べるように用意していたんだが、これ以上やったら俺が抱く前に死んでしまいそうだからやめておいてやろうな」
まるで優しさかのようにそう言って、三幸を板の間から引きずり上げると用意していた寝室で、血と汗にまみれた、反射で声を出すくらいしか出来ないほとんど反応のない女を愛しそうに抱き、白い布団を血で汚した。
***
ギシ、と床が鳴り、深夜──もう3時を回っている──人の気配のない屋敷の中を壁づたいに歩く。広い屋敷の中には月明かり以外に光はなかったが、彼女の足取りがおぼつかないのは暗闇だからではなく、また、眼鏡による視力の補強もあったため、視覚は関係なかった。ただ、包帯を巻いただけの右肩と、紙を詰めて無理やり血を止めた膣が激しく痛み、傷による高熱で平衡感覚も失われていた。
なんとか部屋までは辿り着こうと意識を保つが、思考とは裏腹にぐらりと体がかしいだ。──倒れる、そう思ったとき。
「派手に遊ばれたな」
声は老人のそれ、しかし倒れかけた三幸を支える手は力強く、軽々と彼女を起こす。
「お祖父様……」
普段ならうっかりこの老人に助けられようものなら即座にその手を離れ口先ばかりの礼を言って去るのだが、今はそんな元気もなく、ただ睨みつけるような形になる。
「悪態をつく余裕もないとは、相当一宮の倅に絞られたと見える」
老人は面白がるように言った。
「鰐鬼でもけしかけられて犯されたか。蛇鬼にやられなかっただけマシだな。二倍じゃすまなかろうし。まぁ次からはもっと上手くやることだ」
真実、この老人は面白がっていた。なにせ、孫娘をからかうためだけに深夜、自分の寝室からは随分と離れた三幸の居室近くまでやってきてわざわざ助け起こして見せたのだから。
「流石にその傷は一日二日では治らなさそうだ。牛宿に治療してもらうといい。アレは割に器用だからな。一晩あれば綺麗にしてくれるだろうよ」
牛宿──イナミボシ──とは祖父が三幸の世話を任せている使鬼である。死なない程度に守り治すようにと命令されたそれは決して祖父の愛情によって与えられた訳では無い。ただ、この老人にとって三幸がどこかで野垂れ死ぬよりもそのほうが面白そうだと思っただけのこと。
ふらふらと危うい足取りでなんとか部屋まで戻り、決して二度とあの老人の手は借りるまいと意識を保って部屋の戸を閉めた。
このまま畳の上に倒れてしまいたいが、その前に一度体を洗わなければ鰐鬼とあの男の臭気で気がおかしくなりそうだった。
電気をつけるために数歩足を動かすのも嫌で、まっすぐに部屋に備え付けられているシャワールームへ行く。跡継ぎになってからこういう多少金のかかる我が儘が簡単に通せるようになったのは嬉しいことだった。
パチ、とシャワールームのライトをつける。オレンジ色の、それほど強くない光が灯り洗面台の鏡には自分のぐしゃぐしゃに乱れた髪とひどい顔色がぼんやりと写っていた。
けれど嘆いても眠る時間が遅くなるだけ。明日の予定はいれていないけれど、いつまでも寝ていて家の者たちにあれこれと噂をされるのも癪に障る。そんな失態は犯さない。
ぼんやりとする頭でそう思い、決意を固めた三幸の表情は──また一段と厳しく、美しさを増すことに彼女だけが気づいていない。
乱雑に巻きつけるように着ていた浴衣を近くの籠に投げて、ギィと軋むアルミ製のドアを押し開ければ、足の裏に樹脂素材のぺたりとした温度のない感触がつたわる。右手はまだ痛くて動かせないからと、左手で取っ手をひねるとまだ温まっていない水が思い切り頭にかかった。普段なら慌ててシャワーの向きを変えるところだけれど、痛みで熱を持った体にはその冷たさも心地よく、ぼぅっとしたままお湯に変わるのを待つ。
──湯気が、浴室の鏡を曇らせていくのに三幸は動かなかった。だから、ゆらりと黒い影が写った。三幸より上背のある、けれどもあの恐ろしい鬼よりは人間らしい形をしたそれは黒衣をまとい、シャワーから勢いよく飛び出す飛沫はその存在を避けるように飛散していく。
異形のモノ、だった。
それ、は、自分の存在に気づかないまま呆けている三幸を見下ろしながらため息をひとつ。やっと三幸は曇った鏡に目を向けた。
「何をしにきた」
シャワールームへ突然現れたそれに驚くこともなく、裸体を晒していることもなんら気に留めぬまま三幸は低く言った。他の誰と話すときよりそれは冷たく、愛想のない響き。
異形もまた、同じく表情を作ること無く憮然とした態度で返す。
「失血死を望んでいるなら放っておくが」
三幸の包帯が巻かれたままの右肩──随分と水分が染み込んで余計に血が滲み、ひどい有様となっている──を、指さして。
それを受けてこの上なく面倒くさそうに、頭をもたげて、あからさまなため息をつきながら重そうな左腕をあげてシャワーの向きをかえる。
「わざわざそれを言うために出てきたのか」
苛立たしげに、向き直ることもせず、問う。
「傷を治してやる。そのままでは髪も洗えなかろう」
至極親切な提案だった。けれども。
「余計なことを。喚んでもいないのに出てくるな!」
それほど広くないシャワールームに、三幸の声が反響する。怒りによって彼女は痛みも忘れて踵をかえし、異形の相貌を睨みつける。けれど、理不尽なはずの怒りを、異形は顔色を変えぬまま聞き、そして黙殺した。
ぐじゅぐじゅになった包帯の上から小さな肩をつかみ、三幸の体が痛みにびくりと震えたのを感じながら、押さえつける。
「離せ! どうせあの糞祖父に命令されたんだろう! 慰めてやれとでも言われたか!」
叫ぶ三幸の額にはりついた黒髪からぽたぽたと水滴がつたい、まつげを、頬を、濡らす。
彼女は自分でもなにを言っているのか分からないまま怒りと疲労で目の前の存在に怒鳴り散らし続ける。けれども人ならざる存在はそれを意に介さないまま、彼女が疲れて怒鳴るのをやめてから、やっと手を離した。
疲れて、もうカラカラになっている喉を更に痛めつけてしまって、疲れて果てて、ずるずると濡れた床へ座り込む。もはや合うことのない目線。
「言っておくが、俺はあの男には何も命じられていない」
「……うそ」
小さく、細い声で言った。先程の怒鳴っていた姿からはかけ離れた、笑っているようにも見える瞳。けれどそこに疑問符はない。疑う気持ちは、ない。絶対に嘘であると信じているから。人の理を持たぬモノからの哀れみを彼女は笑ったのだ。
「……お前が何を信じても勝手だが、支配権はお前に移っている」
ぴくりと彼女の頭がゆれる。ありえないと思っていたことを、それが口にしたからだ。ゆらりと重い頭をあげ、瞳が、暗い光を宿しながら異形を映す。
嘘にしては、あまりにも見え透いている。使鬼の支配権を持っているかどうかを確認する方法などいくらでもあるというのに、そんなに簡単にバレる嘘をつくほど愚かではないはずだった。けれども、あまりにもあり得ないはずのことに、三幸は頑なにそれを否定しようとする。
「私ごときに、お前ほどの使鬼が従うものか。あの祖父はアレで当代一の霊力者だぞ。その祖父が持つ使鬼が、私のようなロクに言霊も使えない、そこらの雑鬼すら従えられない私が! どうして……お前の主になれる」
異形は答えなかった。黙って、主人であるはずの女を見下ろす。
「答えろ。支配権が本当に移行しているのならば! 私の言葉に従え! 牛宿!」
怒鳴り散らす主人に、それは始めて答えた。
濡れた床に膝をつき、黒衣からのぞく黄褐色のしなやかな指先は胸元に添えられ、それは敬意を示すための姿勢を取った。
琥珀色の瞳が、獣のようなそれが、三幸を射抜く。
「やっと名前を呼びましたね。我が君」
三幸は呆然とそれを見ていた。絶対にないと思っていたはずの現実。
力がある妖ほどプライドが高く、自分より弱い人間に従うなんてことは、あり得ない。弱者と憐れむがゆえに嬲るようなことはしなくとも、跪くなどということがあるはずがなかった。あるとすれば、それは確かに主人と認めているからに違いなく。そしてそれこそ、意味が分からなかった。三幸にそんな力がないことは明らかなのだから。
一瞬のうちに色々な憶測が頭の中を飛びまわる。もしかしたら自分が知らないだけで力が弱い人間でも強い妖を従わせる術式があるのだろうか、とか。だとしても自分はそんなものを使った覚えはなく。だとすれば祖父がいつの間にかあたらしい能力を身につけて他人へ強制的に、使鬼の意志をねじ伏せて支配権をもたせるような術を使ったのだろうかとか。でもだとしたら、あの祖父がそれを恩着せがましく言ってこないというのはおかしなことであって。そうするともう全く意味が分からなくなってしまう。
「傷も治ったことですし、お休みになっては如何です」
聞いたことのない優しく、ささやくような声色に余計困惑しながら、自分の傷が全て治っていることに気づいた。
「あ、あ、ぁ。そう、だね」
どこも、痛くはなかった。先程まで叫びちらしていた喉さえ。
なんの不自由もなく、けれども動揺のあまりふらつきながら立ち上がって。牛宿から逃げるようにシャワールームを出る。
なおも混乱したまま、体を拭かなければと。思えば髪も体も洗っていないというのにあまりに不快感が無くなっていたためにそれにすら気づかずタオルを取る。タオルなど、用意していただろうかと考える脳の余剰は無かった。真新しい浴衣を羽織り、ふらふらと敷かれていた布団に倒れて、影が、自分が眠るのを見下ろしていることも知らずに泥のように眠った。
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