羅刹の娘 第二章03

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※残酷な描写、性的な描写があります

あらすじ
人口の約30%が霊力を持ち、妖《あやかし》と呼ばれる人間とは異なる種族との共存が求められる社会。共存とは言うものの、霊力の少ない人間からすれば妖は脅威である。従ってそれらと対抗する術を学ぶための学校が存在する。──その中で名門校である土御門学園に所属する少年少女の物語。
本作は高校生編と中学生編で構成されている。
中学生編では、三幸が中学生の時に巻き込まれた事件から、生まれた時の話まで遡る。義妹、義母との確執、愚鈍な父、奸悪な祖父、誰一人味方とは言えない家の中で三幸が苛烈極まる精神を育てていく。
力はなく、美貌と話術のみを武器にする少女の、危うくもあり、どこか清々しくもある生き様を描きました。

   【3】  一宮に推薦書を書いてもらってから二ヶ月ほど経った頃、家に一通の封筒が届いた。学校からの手紙は珍しく、なんだろうと思って開けるとすぐにそれが生徒会に関する書類だと気づいた。  生徒会長に内定したことと、それに関する手続き書類が入ったものだった。俺は喜びと動揺で思わず変な声を出し、上の部屋にいた弟が何事だろうとリビングに顔をのぞかせる程度にはうるさくしてしまった。 「ごめんごめん、いや、ちょっと、学校から来た手紙がびっくりする内容だったんだ。勉強の邪魔してごめんな」  来年中学生になる弟は、俺とは違う私立の学校を受験する予定で今はまさにその受験勉強の大事な時期だった。けれども、手紙を持っている俺の顔が嬉しそうだと気づいた弟はすぐにこっちに駆け寄ってきて興味津々で話しかけてくる。 「兄さんがそんな声出すなんてよっぽどでしょ? なになに? 手紙見せてよ!」 「いや、まぁ、まぁ、あとで夕飯の時に話すから、まだ俺も手紙読み終わってないし。勉強忙しいんだろ?」 「平気だよ! むしろ気になって手がつかないじゃん。いいから見してよ~」  俺の袖を引っ張って覗こうとする弟に、まぁいいかと手紙を渡してやる。 「えっ! これ、えっ……ほんとに!?」  生徒会長になりたいことを度々家でも話していたので、なることが難しいこともあわせて知っていた弟はすぐに目を見開いて嬉しそうに俺を見上げる。 「良かったじゃん! さすが兄ちゃん!」  我がことのように喜ぶ弟を見ると、じわじわと実感が湧いてきてなんだか俺も嬉しさが増してくる。 「えっ母さんには!? もう言った!?」 「いや、まだ。俺も今手紙見たばっかりだから……」 「早く言いに行きなよ! あ~もう父さんも早く帰ってこないかな~! ひとまず先に、母さん!」  言いながら大声で洗濯物を畳んでいた母親のところに走っていく弟を後ろから追いかけて母親の下へ行く。さっきから何を騒いでいるのだろうと思って少し離れたリビングで洗濯物を膝にのせたままこちらへ視線を向けていた母親が、俺達の表情ですぐに良いことらしいと察して黙ってこちらを見上げる。 「ほら、兄さん!」 「あ、あぁ。えーと、実は学校から手紙が届いて……」  まで言うと、母親は続きを聞くより先に声を上げた。 「もしかして生徒会長!」  めずらしい母の大きな声に驚いていると、洗濯物をどかして立ち上がり俺の方へ来ると手紙を覗き込んで、間違いないと分かると黙って抱きしめてくれた。 「入った時から頑張ってたものねぇ! 良かったわね」  中学に入った時から、首席を守るために必死に勉強していたことを知っている母は、息子の努力が結果としてこうして現れたことに嬉しくなったのだろう。それに母親は俺と同じ土御門学園の卒業生だから、生徒会長というものにどういう人間がつくのか知っている。その壁を乗り越えるほど評価されたと思ったのだ。  実際は、俺の努力がどれほどの意味があったかわからない。けれども、四辻が俺を友人として認め、そして御角三幸にとって価値がある人間であるためには今までの努力も無駄では無かったはずだ。きっと。  夕食の前に帰ってきた父親に──弟に促されて──すぐに報告し、父も快挙だと喜んでくれた。 「良くやった! これであいつらも舐めてこないだろう。いやぁ、良く頑張ったな」  父親の言うあいつら、とは普段さんざん揉めている霊力家系の派閥のことだろう。霊力はないが代々政治家を出してきた俺の家は、政界には顔が利いたが霊界の人間は基本的に霊力のない人間を見下しているフシがあるため馬鹿にされることもあるらしい。  けれども、俺が土御門学園の生徒会長となれば少なくとも俺の代に家を継ぐ同年代の連中は一目置くだろうというのが父の考えである。霊界の政治への関与は一般市民が知るより遥かに多い。しかしそれも、国を守るためには霊力のある人間が妖の発生を抑え、時に命がけで戦ってもらわなければならないのだから当然のことでもある。──実際戦うのは家督を継ぐ上位クラスの人間ではなく、AやBの中で家を継がない者たちがほとんどだが……。    *** 「御角さん、改めてありがとう」  菓子折りを持って高等部の生徒会室で頭を下げる青条。毎回来てもらって申し訳ないと青条は思っていたが、高等部の先輩が中等部に足を運ぶほうが目立ってしまうのでこれが無難だった。 「無事に通ってよかったですね。春から同じ生徒会としてよろしくお願いいたします」  その言葉に、すぐ三幸も生徒会に入れることが決まったのだと気づく。 「あぁ、生徒会には引き続き四辻もいるし、おそらく顧問も一宮先生がそのまま就かれるだろう。君にとっては知り合いも多くて心配は少ないと思う。他のメンバーはまだ分からないが、なにか情報が分かれば連絡しよう」 「ありがとうございます。青条先輩」  私が菓子折りより情報の方が喜ぶと分かっているあたりさすがは四辻が私にわざわざ手間をかけさせてまでつなぎをつけた価値はあるだろうか、と思う。  Aクラスの青条を生徒会長に押し上げるにはそれなりに面倒もあったのだ。この業界はとかく伝統を好む。それに、他の霊界に名の通っている家の子供ならいざ知らず、青条は政治家の息子、こちらの業界に地盤は薄い。それに、政治家が霊界で大きな顔をするのを嫌う人間は多いのだ。  幸い今まで親しくしていた者たちが学校関係者や、学校へ多額の寄付をしている者もいたので少しおねだりすれば二つ返事で動いてくれた。そろそろ軽いお願いの一つでもして甘えておいたほうがいい時期だと思っていたのでまぁちょうどよかった。この程度で未来の政治家先生に、それもどうやら相当に真面目そうな男とパイプが出来たのなら十分いい取引だったと言えるだろう。 「……そうだ、青条先輩、念の為申し上げておきたいのですが」  そう言うと青条はぱちくりと目を瞬かせてこちらを見る。 「内定が出ればまず安心ではありますが、正式に一般生徒に公開されるまでの間に役員が交代になった例が無いわけではありません」 「それは、なにか問題を起こしたとか、そういうことだろうか?」  わかりやすく眉をつり上げた青条は前のめりに三幸の言葉を聞いた。 「表向きはそういうことになりますが、なにぶん閉鎖的な世界ですし生徒会長というポストはやはり人気もありますから。ご存知でしょうけれど、この学校の生徒会に入っていたというだけで扱いが変わる場所もあります。引きずり下ろす口実を探している人はあなたが思うより多いでしょう。充分、お気をつけください」  自分の子供を生徒会長にするつもりだった親が、まったく眼中に無かった下位クラスの大した家でもない子供に取られれば面白くないやつも多い。彼らにとって、生徒会長になることは内申点がどうだとか、扱いがどうだとか、大学や就職の話などではなく単なるプライドの問題として重要なのだ。他のSクラスの子供ならいざ知らず、Aなどに奪われたとなれば泥をかけられたも同然。何もしてこないはずはない。  手助けした私と四辻も恨まれはするだろう。流石に私達の家に手を出すのはリスクが大きすぎてしないだろうけれど、嫌がらせくらいはどこかの阿呆がしてくるかもしれない。  そう思いながら帰路についた。私を嬉々として陥れる人間が、御角の家を恐れない愚か者が身近にいることを忘れていたから。  それは、門をくぐり玄関まで続く長い石畳を歩いている途中に転がっていた。  子どもの 靴  結界の張られている家の中に迷子の子供が入り込むことなどあり得ない。ならばこれは故意に落とされたもの。それも間違いなく悪意によって。問題はこの靴の持ち主が何なのか。  近づくより先にすぐに連絡手段を確保する。妖がらみの何かであれば私は何も出来ない。携帯を取り出してひとまず電波が繋がっていることに安堵しながら四辻に電話をかける。呼び出しボタンを押してから幸いにもすぐ応答がある。 「もしもし、三幸です。ちょっと良くない感じがするんだけど──」 [大丈夫。三幸はそのまま家に帰れば何も問題は起きないよ]  こちらの言葉を遮り言い放った四辻の声に違和感があった。 「靴が、子供の靴が落ちているの。おそらくまだ小学生くらいの、青い靴」 [うん。その靴は放っておいて家に帰れば大丈夫] 「……そう。靴の持ち主を探そうかと思ったのだけど、それは必要ないということ?」 [必要ないよ] 「じゃあ、靴の持ち主を教えてくれる? あなたなら、視えているのでしょうから」  三幸は数少ない四辻の本当の能力を知っている人間だった。敵を減らすためにその詳細を明かさず、噂ばかりがひとり歩きする四辻の数少ない理解者でもある。  麒麟の再来、未来を見通す千里眼とまで言われる彼が、その実ただ遠くが見えるだけで、必死に情報を集めて頭を使って予言めいたことを可能にしているだけだ、と知っている。もちろんあらゆる物理的な障壁を無視して遠くをみることの出来る目はそれだけで特異な能力で、霊力も相当なものであるのは事実だったが決して全てを知っているわけではない。  そして、今の彼に視えているのは今起きていることだけ。 「今、靴の持ち主はどこにいるの?」  だからその質問に答えられないわけはないはずだった。 [──三幸が知る必要はない] 「分かった」  言って、私がその靴を拾いあげてしまったのはかつてこの庭で裸足のまま走った記憶があったから。  ブツリと電話を切る直前に聞こえた声はきっと彼の優しさ。これからすることは、彼への裏切り。  靴の中を見ると22と数字が見える。サイズはそう私と変わらないけれどデザインからきっと男の子のものだろうと思うと嫌な気持ちが巡る。このサイズなら身長は130以上、分別のつかない年ではないはずだ。  子どもの行き先を知ろうと石畳に両膝をついてよく見る。すぐに、赤い跡が飛んでいるのが分かった。目線を少し上げて赤い色を意識して周りを見ると鬱蒼とした庭の奥にまでその跡が続いているのが見えた。霊の残り香は見えなくとも目は良い方だから一度気づけば草花に飛ぶ小さな跡を追うのにそれほど苦労は無かった。  庭の深くに分け入っていく。こんなところまで来ることは普段無い。  鳥や虫の鳴き声とともに、奇妙な音が混ざって聞こえてくる。 「嫌な気配」  苦虫を噛み潰したような声でそういうのは、このあたりが既に妖たちを封印している結界の側だと知っているからだった。殺すのは難しく、かといって一般市民の入れるようなところに封印することを避けるために、また自らの家がより多く強い妖を封印したことを誇示するために、庭の奥にはいくつもの祠や札が建てられ様々な妖がそこに眠っている。中には、檻の中に入れられているだけでこちらの様子を見ているやつすらいる。そういうモノは殺してしまっても構わないのだが、命令して従えるだけの霊力さえあればこれが結構役に立つのだから祖父はかなりの数をあえて生かして捕らえているのだ。  そういった怨念のようなものと、霊力の無い三幸を遠くの檻の中から覗いているモノの嘲笑する声が得も言われぬ音となって三幸の耳に届く。  それだけで体力を削られるような思いだが、今はそんなことを気にしている場合ではない。錆くさい匂いが妖から発せられるそれなのか別のものか判断しかねてあたりを注意深く睨む。ふいに、視界の端で葉が動いた気がして思わず声を発した。 「もし聞こえるなら返事をして! 私はこの家の娘です」  鋭い声で言って、すぐに返事を聞き逃さないように耳を澄ませた。 「──……いま、声がした! いるんだね! 今行くから待っていて!」  ガサガサと生い茂る木をどかして見通しの悪い場所を歩き回る。 「ぁ、……さ、──ぃ」  次第にはっきりと聞こえる声に神経を尖らせて。 「……見つけた」  頭から血を流した少年。幸い意識ははっきりしているようで、こちらに気づくと顔をあげて泣きそうな顔をした。 「動かないで、すぐに手当をするから」  震える手に力をいれて、感情を悟られないようできる限り丁寧に少年に触れる。頭部の出血以外に右足が骨折しているのが分かった。おそらく殴られてここまで運ばれて、逃げられないように足を折ったのだろう。杜撰なことだ。けれども全てを妖の仕業ということにするのであれば十分なやり方だった。  制服のスカーフをほどき、少年の頭にハンカチを当ててそれを抑えるように巻いた。 「お姉さんは……だれ?」  あちこちが痛いだろうにそういった素振りは見せず、ただ少し不安そうに潤んだ目で三幸を見る。 「……私は、御角三幸といいます。一応、この家の娘だから、庭の帰り道は分かると思うけれど」  無事に返してあげると言い切れないのは、錆びついた匂いに混じって生臭い、嫌な、悪臭が先程から鼻につくからだった。 「みかどさん?」  少年は目を瞬かせて安堵の表情を浮かべた。 「知ってるよ! 兄さんの友達でしょ? 生徒会にも一緒に入るって晩御飯の時に話してたんだ!」 「……そう。やっぱりあなたは青条先輩の弟なんだね」  三幸が悲しそうに、苦しそうに笑う理由を少年は知らない。  それこそが彼が今巻き込まれている事態の全てだった。敵は嫌がらせなんてものでは気がすまなかったのだ。というより、端からそんなくだらないことをするつもりはなく、自分の子供が確実に生徒会長になるために青条の弟を人質に──というより犠牲にして脅そうとしているのだろう。今頃青条の家にはそれを証明する手紙が届いているはずだ。そしてその責任を私と妖に押し付けようとしているに違いない。腐っても御角の娘、庭の封印については知っているし、操ることは難しくとも数匹逃がして子供を襲わせるくらいのことは出来る。  相手はそれを知っている人物だ。誰の仕業かすぐに分かった。けれど、まさか、あの女がほんのいっときの学校生活にそこまで執着して子供を犠牲にするほどとは思わなかった。そこまでして自分の息子を会長にして何があるというのか。それとも、単に口実を見つけて私を巻き添えに殺したいのか。 「……奥の祠に行こう。その方が、まだ時間が稼げるはずだから」  ひざまずいた三幸におぶさる。 「みかどさん、重そうだよ……僕、片足は大丈夫だし歩けるよ?」 「平気。痛いでしょう。しっかりつかまっててくれれば大丈夫だから」  言いながらも、実際あまり余裕はなく少しふらつきながら庭の更に奥へと進んでいく。早足で歩くせいですぐに息を切らし始めた三幸を心配して少年はもう一度自分で歩くことを提案したが、返事はないままより足早になる。周囲を警戒しながら必死に歩く彼女の様子にもう何も言えなかった。  数分黙々と歩いてやっと祠が見えてくる。ほとんど駆け足になりながら彼女は祠の扉を肩でぶつかるように開けて少年を下ろすと、そのまま急いで扉を閉めた。  ぜぇぜぇと息をして、汗で頬に張り付いた髪の毛を耳にかけるとその場に座り込んでそこで始めて再び少年と目を合わせる。 「お姉さん……だ、だいじょうぶ……?」  大丈夫だよ、と答えてあげたかった。けれども、何も見えない少年とは違い三幸にはすぐそこまで迫っている影が自分では決して太刀打ちできないものだと分かっていた。 「……この祠の中から絶対に出ないで。待っていれば、お兄さんの、友達が助けに来てくれると思うから」  微笑む彼女に、少年は何かを悟った。たくさんの言葉を飲み込んで、一言。 「分かった」  それだけ答えた少年が、青条にとってどれだけ大切な存在かたやすく想像がつく。  祠の周りには結界が張られている。封印している妖が逃げ出した時のことを想定して霊力者が能力を使いやすい場所を一定の間隔をおいて作ってあるのだ。けれどもあくまで霊力がある者ならば戦いやすくなるという話であってそもそも霊力の少ない三幸では大した効果は期待できなかった。それでも数分は祠の結界が守ってくれるし、破られても少しの間だけなら三幸の僅かな霊力を源に妖の侵入を防いでくれるだろう。 「……お兄さんは、家でも真面目なの?」  呼吸が整ってきた三幸はずっとこちらを心配そうに見ている少年にそう言って笑いかけてみる。 「はいっ。そうなんです! 兄さんはいつも一生懸命たくさん勉強してて、学校でも成績が一番で!」  ハキハキと嬉しそうに、少年は大好きな自慢の兄の話をし始める。  しばらくそれを聞いていて、中学校の運動会でアンカーだった話まで遡ったところで突然空間がミシッと鳴った。驚いて天井の方を見上げる少年にどう説明すれば良いものか三幸は考えていた。一度音がなり始めるとその後もピシ、パリッと異様な音が続く。家鳴のようなそれは結界が限界を迎えていることを伝えていた。 「お姉さん、この、音って……あ、……それでね、兄さんリレーの途中で靴が脱げちゃったんだけど、そのまま走り続けてさ」  賢い子供だ、と思った。自分が何に巻き込まれているのかさえ聞いてこない。質問攻めにされるのが当然の状況だと言うのに。泣き叫んで、足が、頭が痛いと言ってどうして自分がこんな目に合うんだと言うだけの権利があるはずなのに。 「……青条君、ごめんね」  ポツリと呻いた彼女に、少年はかなしそうに微笑みを返した。自分の命が危ういことも気づいているだろう。 「ちかくに、行ってもいいですか」  小さな声でそう聞いた彼に胸が締めつけられる。かくも無垢な子供をどうして苦しめるのか。 「私がいくよ」  ミシミシと鳴る祠の床をできるだけそっと膝でするように歩いて小さく座っている少年の隣に座り直す。肩と肩が触れて、自分の汗で冷えた体にじんわりと体温が染み込んでしだいに重さがかかっていく。控えめに、様子を伺うように伸びた彼の手が私の右腕を抱きしめる。 「……できるだけ祠に霊力を注いで、もたせるから。もう少し我慢してね」  肩にもたれかかる少年の表情は見えなかった。けれど、腕を掴む力が少し強くなったことだけを感じた。  四辻が助けに来てくれるとして、どのくらい時間がかかるだろうか。おそらく足止めを食うだろうと思うとあまり期待は出来ない。既に祠に入ってから二十分が経過していた。私が結界に霊力を流し込んで、どれだけ持つか。祖父が気づいてくれればと思うが、気づいたとて助けてくれるか分からないし助けてくれても後が面倒くさいだろう。まったくもって人生ままならないことばっかりだ。  ミシミシ、ピシピシと天井だけでなく扉からも音がして、目に見えない圧がかかっている。外には一体何体の妖がいるのかすら分からない。もう少し用意があれば時間を稼ぐ方法もあるのだけれど、なにせ学校から帰ってきてそのままの格好だから何もない。  少年はもう何も喋らなかった。  眠っているのかと思うほど静かに彼女の肩にもたれかかってゆっくりと息をしている。  この命を失いたくはなかった。だから四辻の忠告を無視した後悔はない。あのまま家に帰っていれば私はきっと何にも巻き込まれなかったけれどこの子供は妖の餌になって、あの馬鹿正直な青条先輩はそれを生涯背負うことになっただろう。それなら、他人に過ぎない女の命のほうがいくらか安いというもの。 「……お姉さん?」  ハッとして顔を上げた彼は急激に女の腕が、頼りにすがっていたそれが異常な熱を持ち始めたのに気づいた。 「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」  ぽた、と紺の制服の上に血が落ちる。 「は、鼻血、お姉さん! ぼく、ハンカチ」  慌ててズボンのポケットをまさぐって、くしゃくしゃになったハンカチを彼女の鼻に押し当てる。  けれども、あとからあとから溢れてきて布をじわじわと真っ赤に染め上げて、少年の手にまで血はおよんだ。汗が、熱が、異常に満ちているのが分かる。 「お姉さん、なんで、なにが」  泣きそうになってそういう子供は、もう彼女に体重を預けてはいない。 「もうすこし、もうすこし」  唱えるように言ってずるりと三幸は少年のいなくなった肩の方へ傾く。それを支えようととっさに手を伸ばすが自立することの出来なくなった女の体は重く、頭を打ち付けないようにするのが精一杯だった。  横たわる体からは離れていても分かるほど熱を放っている。それは、自らの生命活動に必要な霊力を削っている証だった。とうの昔に彼女の僅かな霊力など尽きていたのだ。結界を維持するだけでぎりぎりだったそれを、無理やり時間を稼ぐために体の限界を超えて霊力を捻出させている。  脈は乱れ血圧が上がり、神経が妙な音を立てていうことをきかなくなっていく感覚。耳の中でプチプチと音がしてすぐに彼が悲鳴をあげたので、血が出ていることに気づいた。頬を、赤い線が這いそのうちに視界も染まっていく。 「やめて、やめて! お姉さん! 死んじゃうよ! 助けて!」  凄まじい耳鳴りの中で泣き叫ぶ子どもの声が聞こえた。 「だぃじょぅだよ。わたし、わたしぁまも、かぁ」  まもらなければ このこどもを なんの罪もないむくなこどもを 「僕なんか構わないで! 僕なんか、役に立たないんだ! 足手まといで、いつも! 兄さんみたいな力もないんだ! 死んだって構わないから!」  叫ぶ子どもの健気さと同時にある穏やかな諦観──優しさを孕んだ諦めと言おうか、そういったものを三幸はよく知っていた。  倒れているのを見つけた時から、その子供が必死に逃げようとした跡がどこにもないことに気づいていた。衣服に汚れはほとんどなく、声が枯れるほど叫ぶこともせず折れた足をぼんやりと眺めて、私を見つけて始めて顔を上げた子供。  優秀な兄を慕っているのは本心だろう。けれども、文武両道で名門校に入り政治家としても期待されるだけでなく霊力にも恵まれた兄と、弟が、比べられずに生きることは出来なかっただろう。  私が、生まれながらにして高い霊力を持った妹と比べられたように。  たとえどれほど親が愛情を注いでくれたとて、周りが、自分自身がそれを意識せずにはいられない。どうすることも出来ない無力感と妬みのような感情が成長とともに諦めへとかわっていく。それでも優しさを捨てなかったこの清い子供を殺したくなかった。  憎悪に染まり鬼となった愚かな私が死ぬほうが、ずっとよかった。 「しななぃ、で、だい、じ、なの」  血液が、逆流しているような痛み、沸騰しているのかと思う苦しさ。  冷たい手がわたしを抱きしめていた。しびれて感覚のない体にぴたりとそれは寄り添って、泣いていた。  もうもたない 天井から 桑の実色の 泥が漏れている 「三幸!!」  意識がなくなる刹那、聞き慣れた声が響いて私は笑った  それきり記憶はない。

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