羅刹の娘 第二章05

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※残酷な描写、性的な描写があります

あらすじ
人口の約30%が霊力を持ち、妖《あやかし》と呼ばれる人間とは異なる種族との共存が求められる社会。共存とは言うものの、霊力の少ない人間からすれば妖は脅威である。従ってそれらと対抗する術を学ぶための学校が存在する。──その中で名門校である土御門学園に所属する少年少女の物語。
本作は高校生編と中学生編で構成されている。
中学生編では、三幸が中学生の時に巻き込まれた事件から、生まれた時の話まで遡る。義妹、義母との確執、愚鈍な父、奸悪な祖父、誰一人味方とは言えない家の中で三幸が苛烈極まる精神を育てていく。
力はなく、美貌と話術のみを武器にする少女の、危うくもあり、どこか清々しくもある生き様を描きました。

   【5】  母の葬儀が終わったあと、私の部屋は母屋へと移された。かつての母の意向を汲んで名前は変わらず白石三幸だったけれど父は私を娘として扱った。使用人にもそう言い含めて。けれども私には分かっていた。父がこの家においてどれほどの力も持たないということを。だから離れから自分の荷物を持って来るのは一人でやった。父が何を言ったって使用人は私を尊重したりなんかしない。大事なものは全てそこに置いてきて、誰にも触らせたりなんかしない。  こうなった以上、今日から私に家はないと思わねばならなかった。世話係がついたが信用することはもちろんしない。けれどもこれに関しては引っ越しと違ってきちんと世話をまかせた。ここで断って己で済ませれば、今度は私の存在が軽くなる。私は居候ではない。この家の、御角の娘である。  母娘は変わらず私を苦しめるために父の目を盗んでは思いつく限りの罵詈雑言を浴びせ、亡き母を侮辱した。使用人もまた多くはそれに順じ、幾人かは貝のように押し黙った。それらは全て想像の範囲のことだ。しかし、この家にきて始めて知ったのは祖父という存在がいることだった。どうやら祖父はこの家で最も偉い立場で、あまり部屋から出てくることは無いがたまに姿を出すと使用人も、父も、あの女も皆どこか緊張しながら下を向いた。別段その年寄が何かしたり、言ったりするのを見たことはないが、時折外から来た客人に何度も頭を下げられているのを見て、どうやら相当に偉いのだと思った。  祖父を敵に回したらまずいと思ってしばらく警戒していたが、その老人は私のことも、妹のことも、この家にいる人間の全てに興味がないようだった。 「白石、お祖父様を見かけなかったか?」  父は私を白石と呼び、顔を合わせるたび廊下ですれ違うたび意味のない言葉をかけた。今も別に居場所を聞きたいわけではないのだろう。父は、母に似た私を気にかけていて、けれどもどう関われば良いか分からずとにかく会ったら話しかけることにしたらしい。私と父が話しているのをあの女に見られるとその後が悪いので私にとっては迷惑でしかなく、話を早く切り上げることしかいつも考えていなかった。  だからこの時も、あの女に見つかる前にと思いながら、幸い祖父を先程見かけたところだったので即座に答えた。 「庭で、黒い服を着た男の人と話していました」 「そうか。教えてくれてありがとう」 「いいえ、では失礼します」  そう言ってその場を立ち去った。けれども数刻の後、部屋で学校の宿題をしていると急に部屋の外が騒がしくなってくる。不安を感じながらもこのまま部屋にいたら何が起きているのか分からない。警戒しながら部屋を出て、いつもよりこちらを見てくる使用人たちの様子がおかしいことに気づき、私はよりいっそう背筋をのばした。  この騒ぎは何か私に関係があるのだ。身に覚えはないが、それを言って済まされる家ではない。  足に、指先に、力を入れて震えていることを悟られないよう一歩づつ歩いた。すぐに私を探していたらしい父が現れて、ついて来るように言われる。態度には険しい空気がないので何か問題を起こしたわけではないらしいと思ったのもつかの間。  案内された部屋にはあの母娘だけでなく、祖父がいた。 「そこに座って、ちょっと確認したいことがあるだけなんだ」  父は心なしか楽しそうに言った。表情も明るいし、声色も弾んでいるような気がする。しかし母娘は正反対で、怒りに震えているように見えた。祖父は……祖父からは何も読みとれない。  私は混沌とした状況を理解できないまま言われたとおりに座る。 「さっき、お祖父様が黒い服を着た男の人といると教えてくれただろう。白石が見た男の人の特徴を教えてほしくてね」  妙なことを聞くと思った。その情報になんの意味があるのか分からない。祖父と話していたのだから、誰か分からないわけがないのに。私は不審に思いながらも一瞬だけ見た男のことを思い出しながらひとつひとつ話す。 「お祖父様より背が高くて、髪は黒くて長かったです。あと、肌の色が茶色っぽくて外国の人……? みたいだったと思います。そんなにじっと見たわけではないので、どこまで正確か分かりませんが。服装は黒かったことくらいしか分かりませんでした。思い出せるのはそのくらいです」  父は聞きながらますます、誰が見ても分かるくらいに機嫌を良くしていた。 「そうかそうか! よく話してくれた」  そう言ってから、祖父の方へと向き直りいつもからは信じられないほど元気よく言った。 「父さん! やっぱりこの子には霊視の才能がある! まつりは気づかなかったみたいだが、間違いない。お父さんの使鬼が見えていたなら少なくともC級の才能はあるはずです。まつりもCだったからそれ以上は難しいかもしれないが、土御門に入ることは出来ますよ」  聞いたことのない言葉が父の口から次々に飛び出す。しかしそれを尋ねる間もなく祖父が言葉を発した。祖父が話すのをちゃんと見たのはその時が始めてである。 「……いいだろう。ただし中学に入るまでには恥ずかしくない程度に教育させなさい。使鬼を見て、人間と間違うようなことがあってはいい笑いものだ」  それを聞いてよけいに父は喜んだ。父からすれば、それはつまり白石を名乗っている娘に御角として名乗らせても恥ずかしくないようにしろという意味で、この家で最も権力を持った者に私の存在が認められたということでもあった。それに、祖父の命令であれば妻がどれほど嫌な顔をしようとも霊力に関する教育をしないわけにはいかない。一番良い口実が出来たと思ったことだろう。  この日から、私の家の中の立場は大きく変わった。外部の講師からほとんど毎日霊力というもの、使鬼について、ごくごく基本的なことから教わり、少しでも霊力をあげるためのトレーニングを行ったり学校の勉強よりそれらが忙しくなってきた。また、父は他にも私に様々な講師をつけた。礼儀作法、着付けなどの身の回りのことに始まって政治状況や御角の家に関わること、家系図や勢力関係に至るまで一年間で全て詰め込ませたいらしくとてつもない量の勉強をすることになっていった。  私は学べることは学べるうちになんでも身につけたかったから必死で全て吸収しようとした。知識は必ず武器になる。母が繰り返し言っていたことだ。  けれども、その間も母娘からの攻撃は続くどころか前よりはるかに苛烈になって。おそらくは妾腹である私がいずれ妹が通う学園と同じところへ行こうとしていることが許せないのだろう。そもそも、私に沢山の講師がつくことすら我慢ならないはずだ。勉強を辞めさせるために、講師からもらった本を捨てたり、部屋の中をぐちゃぐちゃにしてみたり、講師に私の悪評を伝えてみたり、本当に様々なことをされたがそんなことで逃げるつもりはなかった。  どうせ部屋に大事なものなど何もない。講師は父のように馬鹿ではないから私が家でどのような扱いを受けているのか想像がついていたから本に私の字ではない落書きがあっても無言で取り替えたし、無くなったと言ったら眉をひそめながらではあったが新しい本を渡してくれた。彼らは、味方にはなってくれなかったが敵でもなかった。どちらかといえば貝のように押し黙っている使用人たちと近く、私にとってはそれだけで十分だった。味方になってくれる人が消えてしまう恐怖よりは、ずっと。  それでも執拗な嫌がらせに疲れることはやはりある。中でも最近、本当にやめてほしいのは夜中に私の部屋へ虫を放つことだ。最初は驚いて毒のある虫がいないか確認したがその手のものはいなかった。咬まれればそれなりに痛みや腫れはあるだろうが、殺す気はないのだろう。とはいえこれでは眠ることが出来ない。羽音のうるさいやつや這ってくるそれなりに大きな個体までよくも色んな種類を取り揃えたものだ。捕まえようにも小さくて逃げてしまい、その途中で踏み潰してしまったりするので夜中に風呂にはいるはめになる。体力は奪われるし眠れないし、部屋の掃除が本当にやっかいだった。おかげで虫に耐性はついてきたが、流石にこの中で眠れるほど図太くはない。  何日も眠れず疲れ切った末に思いついたのは、夜に部屋にいないこと。とはいえ、眠らなければそれは意味がない、この家の中ではいずれ居場所を突き止められてまた虫を放たれる。だから、遠くに行かなければいけない。  私は、夜になる度に一人でこっそり離れまで行ってそこで一晩過ごすことにした。  おそらくあの女から虫を放つよう命令されていた使用人──私に対して害を成す使用人たちのことは既に把握していたのでその内の誰か──の目を盗んで出かけ、暫くの間その対策は功を奏した。私にとっては離れこそが家だったが、母屋の人間からすればそれはふだん思い出すことすらない建物に過ぎない。盲点だっただろう。  夜遅く使用人の目を盗んで出かけ、学校へ行く用意をするために朝早く戻って来なければいけないので忙しない生活ではあったがなんとかなっていた。  妹に見つかるまでは。  大人たちは私の想像以上に離れのことを思い出さなかった。けれども、あの小さな、わずかに血のつながりのある獣は忘れていなかった。  きらきらと輝く大きな、少し茶色がかった瞳がこちらを見て、獲物を見つけたとき特有の歓喜を孕んだ表情で告げる。 「お姉様、一緒にお家に戻りましょう」  私より幼い頃から礼儀作法を厳しくしつけられてきたその少女は、まっすぐに背筋を伸ばし可愛らしい桜色の着物をきちんと着こなして、言葉だけは上品にそう言った。  すぐに逃げられるようにと着物を着なくなった私とは違う  少女の母譲りの色素の薄い亜麻色の髪が、風になびいている。使用人に撫でつけられてクセのない、栄養の行き届いた美しい髪。  母が居なくなってから短く切られた私のまっくろい髪とは違う  はねないように押さえつけてもいうことをきかない髪、重なる不安と張り詰める神経の中でもちっとも大人しくならない髪が私は憎たらしくて、乱暴に梳かす日もあった。思い切り引っ張ると絡まって痛いのは自分。  毛先からやさしく梳かしていくのよと鏡の前で微笑んでいた母はもういない。  同じ家の中で、同じ男の血を引き継いでいながら私とそれはあまりにも違っていた。少女からすればそれは当然で、だから無垢なほほ笑みで言った。 「はやく、帰りましょう? お母様が見つからないって怒っていたわ」  木々の隙間から射す光が少女の美しい顔を照らしている。  私には永遠に手に入れられない場所にいる、二つ年下の妹。 「お姉様、帰らないの?」  ほほえんで、神々しく、微笑んでそれは言った。 「それとも、アバズレの母親のとこに行くの?」  一瞬耳を疑って、すぐに彼女の視線の先に枯井戸があることに気づいた。死ねと、言われているのだと理解した瞬間──妹は今度は本当に私には聞き取れない言葉を唱えて身構える間もなく体が突如浮遊感に襲われる。  それが使鬼と呼ばれるものかもしれないと習ったばかりの知識から想像したが、それに対処する方法は頭の中を探ってもありはしない。分かっているのは私では勝ち目がないという現実。講師に何度も繰り返し言われた、人でないものを見つけたなら出来るだけそれの気にとまらないように逃げなさいという言葉。私では絶対に敵わないからと。  今その意味が身を持って分かる。  翡翠色の無数の虫のようなモノが視界に入ってはいる。見えてはいる。けれども浮き上がって地面から離れた足はどれほどもがいても影を落とすばかりでそれすら小さく遠くなっていく。不可思議なことに持ち上げられているのに引っ張られているような痛みはない。しかし腕や腹にざわざわと小さな生き物があたる感覚がある。これは一匹一匹の小さな虫ではなく、集合体の何かなのだ、習った妖の中にそんなものが確かいた。そこまで分かったところであっという間に私の体は井戸の真上まで連れてこられていた。 「助けてって言わないの? 言っても誰も来ないと思うけれど。悲鳴くらいあげればいいのに。かわいそうな姉様」  くすくすと笑ってから、もう一度唱える。使鬼らしきモノへの命令であるその言葉とともに私の体は深く底の見えない井戸の中へ、真っ逆さまに落ちていった。  ──パシャン  はるか頭上にいた羽虫の大群が霧散し、やかましく羽音を立てる下で聞こえた水音。それは確かに聞こえたのだ。母の遺体が片付けられて雪もとうの昔に溶け、水分などすべて蒸発したあとの乾いた井戸の底から。  真っ黒い影はゆらりと私を飲み込み、井戸を覗き込んだ妹のつまらなさそうな声が聞こえた。 「暗くて見えないわ」  その一言だけを発し、カラコロと遠ざかっていく足音。  私は何も見えない闇のなかにとっぷりと浸かりながら温度も重力もない感覚に思わず息をとめた。行ったことのない海で溺れたらきっとこんな景色に違いないと思ったから。 「馬鹿な娘」  闇色の海の中でそんな言葉が降ってきて、声のする方を探す。けれども見つけるより先に、ひやりと何かが腕に触れた。驚いて思わず声を出すと、口の中に水が入ってくることはなく、水の中で叫ぶよりずっとよく響いたのでそれにまた驚いた。  自分の声に驚いている少女を見て、それはもう一度言った。 「母親とは大違いだな」  その言葉に、先程まで息を殺して、足のつかない空間に身を縮こめていた少女の目は見開いて激しい熱を持った。  そこにはもう、腕を掴まれて悲鳴を上げた少女はいない。目に見えない何かを瞬きもせず見つめ、はっきりとした声で問う。 「どうして母さんを知ってるの」  井戸の中に潜む人間でない何かが、母と自分を比べられるほど自分たちのことを知っているのか。少女の眼差しは影色のその生き物を縛り付けようとするようにわずかも揺れること無く見えないはずのそれを捕らえていた。  影は居心地が悪そうに、不快そうな声で少女の問に答える。 「ずっとここにいたからな」 「ずっと……? ずっとっていつから?」 「あのクソジジイに捕まってから、ずっとだ」 「誰のこと? あの父親のこと?」 「父親の父親だよ。いるだろう、みんなが嫌ってるあの年寄のことだ」 「お祖父様のこと……? 嫌われてるの?」  皆あの人をみると目をそらして頭を下げるから偉い人なのだということは分かっていたが、嫌われているかどうかはよく分からなかった。少なくとも、今の三幸にとってその男は敵では無かった。 「嫌われてるんだよ。とってもな」 「それで、その嫌われてるお祖父様に言われて私達のことを見張っていたの? この井戸からずっと?」 「別に命令されたわけじゃあないがな」 「でも、母さんが死ぬところも見ていたってことでしょう」  淡々と事実を確認するように彼女は言った。  影も、その言葉に何かを感じることはなく答えた。 「あぁ」  短い一言に、彼女は瞬きを一度だけしてから問うた。 「どうして、私を助けたようにはしてくれなかったの」 「どうして? あの女は自分で落ちてきたんだ。何を助けるんだ?」  影にとって、助けを願うものを見たとき初めて助けるか、助けないかの選択肢がうまれるわけで、そもそもそれを求めていないものには何の行動も発生しない。だから三幸の問いは理解が出来なかった。助けてやらなかったわけではない。そもそも助けるという選択肢が発生しない状態だったのだから、何かを選んでそうなった訳ではないのだ。  妖は感情が無いわけではない。けれども人間のそれとはあまりにも違う。  少なくともこの影は少女を憐れんではいるのだ。あの雪の日に泣き叫んだ少女を。 「お前は死なないでほしいと思っていたんだな」  慰めにしてはあまりにも無機質な、けれども影からすれば最大限のそれを告げる。 「……分からない。母さんが本当に死にたかったのなら、良かったのかもしれない。母さんは、笑っていたもの」  影は何も言わなかった。先程まで苛烈な意思をこめてこちらを睨みつけていた瞳が、今はぼんやりと宙を眺めるのを面白くないとは思ったが、なぜそう思うのかは分からなかった。 「でも、死んでしまいそうには見えなかったの」  こんなに怪しげな、こんなにわけのわからない空間で私はなぜこんな話をしているんだろうと思いながら何もかも考えるのが面倒になって口からぽろぽろとこぼれていく気持ちを抑えるのを諦める。 「あの日の朝、笑ってた。時々、具合が悪そうに、起き上がれない日や、何か、何かわからないけど喋っている日もあったけど、あの日はそうじゃなかった。だから覚えてるの。よかったって思ったから」  影は何も言わず、気がつけば腕を掴んでいたはずの力は無くなっている。  宙ぶらりんになった体はふわふわと浮いたまま、どこにいるのか見当もつかないなにかに向かって話し続ける。 「だけど、帰ってきたら家の中がすごく静かで、そんなことは一回も無かったから、居なくなってしまったなんて思わなかった」  ぽろりとこぼれた涙は、宙に漂ってすぐに消えた。影が握りつぶしてしまったから。  その瞬間に、体温をもたない気配が周囲に集まるのを感じ、少女は身をこわばらせた。自分の体の輪郭以外なにも見えないその空間からするりと現れた、大きな手──影よりもわずかに陽の光を含んだそれが濡れていない頬に触れて片手でたやすく顔を包んだ。  一瞬、このまま影に引きずり込まれて死ぬのだろうかと思った。あまりに優しい手をしている気がしたから。けれどもそれはあっさりと手を離すと、低く心地の良い声で言った。 「笑っていろ」  たった一言、言い捨てた刹那──闇は真っ白に燃え上がり私はその閃光とともに意識を失った。  次に目を覚ました時、そこは久しぶりに自室の布団の上で慌てて起き上がると見覚えのある老人がいた。  少女の、小さな机や本棚がならんだ部屋にはあまりにも不似合いなその老人を見て、思わず「嫌われ者の」と思ったが口には出さず姿勢を正して相手の言葉を待った。  立ったまま、私を一瞥してから短いため息をついてそれは言った。 「宿ホシの一つがお前を気にしているらしい」  言葉の意味がわからず、黙っているとそれを察したらしくもう一度品定めするようにこちらを見ながら言った。それが説明のつもりだったのか、それとも単なる独り言だったのかは判断が尽きかねる内容だったけれど。 「二十八もいるんだ。一煙くらい変なのもいるだろう。まさか手を出すとは思わなかったが、アレの気に留まるならお前にも少しは何かがあるということか」  それとも本当にただアレの気が変なのか? と言いながら、わずかも動かない視線と表情に少しの恐怖を覚えたけれど、私は変わらず黙って祖父の言葉を待った。勝手に自分の意見を言い出すあの血の繋がらない母親のことをこの人が好んでいないことは気づいていたから。 「……まぁ、もう少し様子を見るとしよう」  そこで初めて目があっている、と感じて思わず肩が震えた。 「怯えなくても追い出す気はない」  すべてを見透かして薄く笑う男は言った。 「それに、寝不足で死なれてもあまり面白くはなさそうだ。この部屋には近づかないように言っておこう」  孫娘に対して言うには冷たすぎる言葉とともに、わずかも優しさのこもらない微笑みで告げると今度は少女の返事を待つように黙った。 「……ありがとう、ございます」  なんとかこわばる表情でそう言って、ふいに、あの顔も知らない影の言葉を思い出す。  母さんは、どんなに辛いときでも笑ってた。  きっと、今私が受けている苦しみよりはるかに多くのものを感じ、私を守るために必死に堪えながら、笑っていた。死んだ瞬間でさえ。  私にはその笑顔の理由はわからない。けど、そんな母さんが好きだった。それなら。  ひとつ、息を吸って。 「お手間をかけて、申し訳ありません。感謝いたします。……お祖父様じいさま」  笑った。  ──またひとつ、鬼に近づく

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