04
※一部残酷な描写があります
あらすじ
明治中期~後期にかけて忍の里を舞台にした物語。
帝都から里へ帰ってきた燐太郎《りんたろう》に、忍修行中の少女 鼓《つづみ》が一目惚れするところから始まる。洋装を着こなし、優しげに笑う燐太郎に心惹かれる鼓だが、程なくして姉のサヤと燐太郎が婚約したことを知らされる。ショックを受けながらも大好きな姉を祝福する鼓。けれど、幼い頃から鼓を気にかけて助けてくれていた蒲《ガマ》はサヤに対して懐疑的で……。
様々な思惑が巡りながら、才能とは何か、自分にとっての幸せとは何なのか、探し、悩み、苦しみながら美しい悲劇へと向かっていく。
【4】
鼓は未だ、頭領への返事を迷っていた。
パシャパシャと川へ石を投げ入れながら、草原に座り投擲の練習と言うにはお粗末な手遊びをしながら考える。
忍として生きることを決めてしまうには、彼女にとって情報が多すぎるのだ。もともとそれ以外ないと思っていたから忍修行もただ上達することだけを目標にやってきたが、本当に忍になりたいのかと改めて自分に問うてみると、はっきりと答えられない。そもそも自分はいったい何がしたいのかなんて分からない。姉さんのように女性としての生き方も素敵だと思う反面、所詮は忍になれなかった落ちこぼれに過ぎないと心の中に染み付いた父の──死んだ父の言葉が聞こえる。
「お前は才能がある。俺よりもあるんだ! 必ず俺がお前を立派にしてやる! どんな任務でも完璧にこなせるようになれ!」
馬鹿みたいにあの人は繰り返していた。
愛されていないわけではなかったと思うが、好きにはなれなかった。
怪我をすれば手当の訓練だと言われやり方は教えてくれたが、決して助けてはくれなかったし、すぐに怪我をしていても敵をやりすごし逃げるための修行ができると言って休ませてもくれなかった。熱を出しても毒を接種したときのための修行だと言われたし、生活の一切が忍として生きるためのものだった。
ひどい時は眠るのを半刻ごとに邪魔され、短い時間でも効率よく休み敵を常に警戒するようにと言われた。
もうワケが分からないと思ったが、止めてくれるものなどいないのだからアタシは嫌でもその技能を身につけるしか無かった。そうして無理矢理であっても、結果として能力を身につけられてしまったから、父の要求はどんどん難しいものになり、アタシは疲弊しながらそれら全てに応えていった。
突然、父がいなくなるまでは。
アタシはあの人に何があったのか、知らない。本当は生きているのか死んでいるのかさえも。ただ、朝目が覚めたら頭領の家にいて、頭領の一人娘であるさや姉さんが心配そうに隣にいてくれて、少ししてから父は死んだのだと知らされた。
別に本当のことを知ろうとは思わない。心のどこかで死んでくれてよかったとさえ思っている。それくらい父の修行は厳しかった。今でもその時のことを考えると、上手く思い出せないくらい、きっとアタシの心も体も傷ついていた。
でも、今はもうそんなことはしなくていい。忍になることさえ、誰も押し付けてこない。だというのに、どうしてこんなに迷うのだろう。
やっぱりどこかで、あれだけ苦しい思いをしたのに忍を辞めるのは勿体ないとでも思っているんだろうか。確かにアタシは才能があるのかもしれない。でも望んで得たものじゃない。望んで苦しんだわけじゃない。
「羨ましいなんて言われたって、分からない」
ふいに漏れた言葉に、声が答えた。
「愚かな人とは縁を切ってしまうのも一つですよ」
あまりに冷ややかな意見とともに現れたその人は、間違えようのない麗しさと微笑みをもって。
「燐太郎さん!」
「こんにちは、鼓さん。こんなところで一人考え事ですか」
「はい。……家であんまりぼぅっとしてると姉さんに心配をかけるし。こんなはずれまで皆来ないからと思って」
「それはお邪魔してしまったかな」
そう言いながらその人は隣に座った。今日も洋装を着こなして、原っぱの上に平気で座る。アタシとしては、もちろんその方が嬉しかったのだけれど。
でも、どうして、と聞く間もなく燐太郎さんはアタシに質問した。
「羨ましいって言われたんですか?」
「……はい。忍になるか、卒業するか悩んでるって言ったら。どちらでも好きな方に進めばいいと思うって言ってくれたんですけど、でも、忍を選べる可能性があるのは少し羨ましいって」
アタシはあんまり燐太郎さんの方をじろじろと見てしまわないよう気をつけながら、自分勝手な子だと思われないようにと内心不安になって話す。
「その人の気持が分からないわけじゃないんです。だって、忍には皆がなれるわけじゃない。努力だけじゃなれない。だからそれを選べるのは誉れ高いと。……でも、なんだか、心が落ち着かなくて。なんだか少し、悲しくて……」
「僕も悩みましたよ」
「え……?」
思わず彼の方を見ると、少し眩しそうな顔で川の反射を眺めながら、横顔はこちらを見ることなく言う。
「僕も、鼓さんと同じ年の時に、卒業するか、修行を続けるか悩みました」
その言葉に、アタシは『やっぱり』と思ったのだ。だから少し嬉しくなって思わず口をはさんだ。
「そうだと思いました! 燐太郎さん絶対に忍の才能がある、って。じゃなかったら最初、アタシに気づくはずないって、やっぱりそうだったんですね」
「驚いたな。まさか見抜かれていたとは思いませんでした。そう、実を言うと、あなたのお父さん、頭領には随分しつこく忍になるように勧められたんです。ただ、もうその時には僕は、忍になることに興味が持てなくなっていた」
「忍に、興味が……?」
「えぇ。里の皆には内緒にしてくださいね。皆の憧れにそんなことを言ったと知られたらきっと怒られてしまう」
そう言って浅く笑って一瞬だけこちらを見ると、また視線を川に戻し彼は話し始める。
「自慢にしか聞こえないと思いますが、僕は忍としての才能もあったし、学校の勉強もできました。家の商売もたまに親に意見して、聞いてもらえるくらいにはどうやら才能があった。でも僕には大事なものが一つ、なかった」
「大事なもの……。それは……『理由』ですか」
「えっ……?」
今度は燐太郎さんが驚いて、思わずといったようにこちらを見た。
「どうして、そう思ったんですか?」
「だって、アタシにも、ないから。……分からないんです。忍を続ける理由も、辞める理由も、分からない。だからいっそ、才能がなくて忍を辞めるしかなくなるか、それか無理やり続けさせられるほうがよほど良かった。選んでいいなんて言われても、分からない。どっちも良いように思えるし、どっちも苦しいようにも、思うから。燐太郎さんは、違いますか?」
「……いえ、同じです。僕にも無かった。その時、僕はそれを『情熱』と呼びました。そう言う何かをやるためにあるべきものが欠けているのだろうか、と。確かに『理由』とも言えます。ともかく自分を突き動かすための原動力が無かった。だから、僕は結局にげました。楽な方に」
「楽? 都会に行って勉強をするのがですか?」
「えぇ。もちろん最初は大変でしたが、忍修行のように怪我をして痛い思いはしませんからね。都は面白いものや美味しいものも多い。楽しかったですよ」
「……でも、あなたはここへ戻ってきた。新しい物なんか何もないこの里に」
鼓は自分が吐いている毒に気づかないままそう口にした。けれど不思議なことに、彼は愉快そうに答えた。
「そうです。つまらないこの場所に戻ってきた。忍を辞めたときと同じ理由です。僕はまた都会の暮らしに興味が失せてきた。新鮮だと思っていた色んな物も慣れてくれば大して面白くありません。だから、今度は少し商売でもやってみようかと思いまして。土壌もあって学ぶことも出来る、両親の元へ」
彼の『興味が失せた』というのが、おそらく本当にそのままの意味なのだろうと思った。彼はそれを逃げだと言うけれど、本当にそうなのだとしたら頭領がしつこく彼を忍にしようとはしないし、外国の人がとてつもなく高価な自動車でわざわざこんな田舎まで彼を送り、離れがたそうに何度も握手を交わしたりはしないだろう。誰からとっても彼は間違いなくその場所を去るには惜しい人だった。
けれども彼は、そこに残る理由を見つけられなかった。そうなればもう興味のないことを続けるのは苦痛でしか無い。どうせ才能が溢れているのなら他の面白そうなことに手を出してみれば良かった。
そうして彼は、ここへ帰ってきたのだ。
「逃げているのではなく、追っているのですね」
永遠に、本当に自分が情熱を傾けられる何かを探して。探し続けている。
「そう言ってもらえると、とても格好がつく気がしますね。でも、周りから見たらきっとそうは映らない。僕はやっぱりずっと逃げていて、才能があって、どうしようもなく身勝手で羨ましい人間でしょう」
ほんの少しだけ、悲しそうに彼は言った。微笑み以外の。はじめてアタシは彼の表情を見たと思った。
「才能があることが、物や人に恵まれることが、そのまま幸せだとアタシは思いません。だって一番だいじなのは自分自身だから」
「僕もそう思いますよ。僕からすれば、あっさりと、簡単に、羨ましいなんて言葉を人に言ってしまえる浅はかな人の方こそ、よほど羨ましい。そうは思いませんか。その人は、考えることを、想像することを辞めて生きられるんですから」
美しい顔で、少し暮れて赤くなってきた太陽に照らされながら彼は言った。燃えるような赤色のせいで、その人はどこか憎しみを孕んでいるようにさえ、見えた。
「……でも、きっと羨ましいと言うひとだって、アタシの知らないところで苦しんでる」
嫌われるかな、とまた不安に思って。けれども嘘をつきたくなくて、羨ましいとアタシに言ったその人を否定してしまいたくはなくて、言った。答えが返ってくるのが怖くて、少しうつむくと彼は、こぼれるように笑った。ふふっと思わず漏れたように。
アタシは何を笑ったのか分からなくてびっくりしてまた顔を上げると、変わらず彼はほんとうに小さく笑っていた。
「な、なにが面白かったんですか!」
なんだか恥ずかしくなって怒っているみたいになりながら言うと、彼はなおも笑いながら。
「分からない人だなと思って」
「は?」
「怒らないで下さい。ふふっ、だって鼓さん、あんまり悲しそうな顔で、優しいことを言うから、かと思えば、急に毒づいたり、こちらの本心を言い当ててしまったり。予測の出来ない人ですね」
「会話ってそういうものでしょう!」
「そんなことはありません。話術を極めれば相手の言葉はある程度、コントロールできる」
彼は怪しい笑顔を作って、よく分からないことを言いながら立ち上がった。
「さて、そろそろ鼓さんも家に帰らないと、日が沈んでしまいます。楽しかったです。また話しましょう」
「あ、は、はい」
つられるように慌てて立ち上がって、また、という言葉に嬉しくなる。嘘でも嬉しい。
「そうだ、きっと家に帰ったら少し驚くニュース……じゃなくて、報せが届いていると思いますから、楽しみに帰ると良いですよ」
「はい……? 分かりました」
「では、また」
もとの穏やかな微笑みに戻って、彼は帰っていった。
驚く報せとはなんだろうか。それを燐太郎さんが知っているというのもよく分からない。ともかくあまり帰りが遅いとまた姉さんが心配することだけは間違いないから、急いで帰ろう。里のはずれから、走っても少しかかる。
日が沈みきる前には、間に合うだろうけど──。
***
「ただいま」
「おかえりなさい。鼓──って、どうしたのそんな息切らして!」
なんとなく走りたくなって屋根伝いに全力疾走してきたとは説明しずらく……。
「ちょっと、山で修行してきた」
「一人で?」
「うん」
「熱心なのは良いけど……気をつけてね。一人じゃ怪我した時に助けも呼べないんだから」
「そんなに危ないことはしてないから大丈夫。それよりいい匂いするね。今日の夕飯なに?」
これ以上追求されるとボロがでると思い、話題を変える。いい匂いがしてきたのは本当で、砂糖の焦げたようなほの甘い美味しそうな匂いがしていたのだ。
「今日はね、ちょっと良いことがあったからお夕飯豪華にしたのよ。もう少しで出来るから先にお風呂はいってきて」
「はぁい」
なんだろう良いことって。やはり燐太郎さんの言っていた驚く報せというやつのことなのだろうか。砂糖は高いのに、それを使った料理ということはやっぱり相当良いことに違いない。
急いでお湯を浴びて、姉さんと父さんを待たせないように、とわたわた浴衣を羽織って居間に向かう。
幸いまだ父さんは来ておらず、けれども料理がちょこちょこと並びはじめたところだった。
「姉さん、アタシ手伝うよ。なにしたらいい?」
「あら、早かったのね。じゃあ……とりあえずその帯を結び直してから、このお盆を運んでくれる?」
「あっ、あ、うん」
あまりにも適当に結びすぎて、確かによく見るとひどかった。お盆の上から漂ってくるいい匂いによだれを垂らしながら丁寧に結び直し、言われた通り居間へ運ぶ。そうする間にも料理は出来上がって、気がついたら父さんも部屋で待っていて、食卓に料理が揃い姉さんが座ると、食事の時間が始まる。
「「「いただきます」」」
姉さんの嬉しいことも気になるがとりあえず美味しそうな甘い匂いのしている大根を一口食べて美味しい! と言ってから、アタシは聞いた。
「それで、今日はなんでこんなに豪華なの?」
姉さんは聞かれるのをまっていたかのように微笑んでから、チラと父さんの方を見る。
「サヤから話しなさい」
「はい。……あのね、鼓、びっくりすると思うんだけど、私、婚約が決まったの」
「……え……?」
姉さんは、十八、あり得ない話ではない。むしろ里の中では遅いほうかもしれない。女なら十五くらいで結婚をしてもおかしくはない。だけど、なぜかアタシは信じられなくて、やっとのことで「誰と?」と聞いた。
そうしたら姉さんは、ことさら嬉しそうにこう答えたのだ。
「燐太郎と!」
その瞬間、アタシは気がついたらとても楽しそうに笑っていて、姉さんにあらん限りの祝いの言葉を送っていた。
「おめでとう姉さん!
すごいよ!
だってあの燐太郎さんでしょう!
里の皆が狙ってたのに!
さすがさや姉さんは、里で一番すてきだからなぁ!
本当におめでとう!
アタシ嬉しいよ!」
頭が、いや、頭の中の思考とも言うべき何かが真っ二つになりそうな心地を味わいながら、アタシは姉さんが本当に嬉しそうにするのを見て。一緒に楽しくご飯を食べて、二人で隣り合わせで洗い物をしながら姉さんが燐太郎さんとどんな話をしたのか聞いて、祝い、褒め、あんな格好いい義兄さんが出来るなんて嬉しいな、なんて言いながら満足気にお風呂へ向かう姉さんを見送って、
吐いた。
お砂糖を使った料理や、珍しいお魚も、食べ慣れたお米も、全部
姉さんにも、父さんにも知られないよう土に埋めて、アタシは、一人で泣いた。自分でも信じられないほど、全身の血が逆流するような寒気と痛みに襲われながら。
燐太郎さん
アタシ 初恋でした
馬鹿みたいに貴方の隣に立つこと考えて
もしかしたら なんて本気で思って
本物の馬鹿でした
さや姉さんと燐太郎さん
きっと里で一番すてきでお似合いの夫婦になります
でもね
あなたが選んだその人は
あなたが愚かと言った人。アタシを羨んだ人。あなたがほのかな憎しみをもって浅はかで想像することを辞めた、と言った、羨ましくて馬鹿な、その人です。
アタシの苦しみを知りながら簡単に羨ましいと言ってのけたその人です。
──どうか どうか 末永く お幸せに
「アタシはきっと、里一番の忍になりますから。どうぞ、サヨナラ」
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