05
※一部残酷な描写があります
あらすじ
明治中期~後期にかけて忍の里を舞台にした物語。
帝都から里へ帰ってきた燐太郎《りんたろう》に、忍修行中の少女 鼓《つづみ》が一目惚れするところから始まる。洋装を着こなし、優しげに笑う燐太郎に心惹かれる鼓だが、程なくして姉のサヤと燐太郎が婚約したことを知らされる。ショックを受けながらも大好きな姉を祝福する鼓。けれど、幼い頃から鼓を気にかけて助けてくれていた蒲《ガマ》はサヤに対して懐疑的で……。
様々な思惑が巡りながら、才能とは何か、自分にとっての幸せとは何なのか、探し、悩み、苦しみながら美しい悲劇へと向かっていく。
【5】
燐太郎とサヤの婚約はすぐに里中に知れ渡った。
燐太郎に執心していた女たちは皆くやしがったが、相手がサヤとなれば誰も不釣り合いだとは言えなかった。頭領の実の娘で、気立てもよく、賢い人だとよく知っていたから。男衆もまたサヤが婚約したことに動揺してしばらく男だけの慰労会と言う名の飲み会が開催されていたらしいが──妻のいる者も参加していて存在が暴かれ相当に絞られたらしい──彼らもまた、相手があの燐太郎となれば、ケチのつけようも無かった。
結局、しばらく狭い里の中が騒がしくなったあと、お祝いを言いにまた皆がサヤの家を訪れてめいめいに、心から祝福した。
正式な結婚は燐太郎が成人してからということになるため、今しばらくはお付き合いの状態が続く。とは言っても当然、両家公認なのであり家族ぐるみの付き合いになる。
したがって、家に訪れた女衆は鼓のことを羨ましがった。もちろん、素敵な義兄ができることに対してである。
「……カワイソーにねェ」
鼻で笑ってはいたものの──そう言ったのは蒲だけだった。蒲だけがアタシの愚かな恋心に気づいていて、おそらくはそれが憧れや友情という形に昇華できるような感情ではないことも知っていた。
「ま、でもよく知ったらイヤーなトコも見えてくるだろ。もしかしたら千年の恋も冷めるようなド変態かもしれねェよ?」
アタシは思わず笑って、いつもより少しだけ静かで、優しい蒲の声を聞いていた。
婚約が決まってからというもの、鼓の家にはよく燐太郎が訪れるようになり自然と鼓も彼と話す機会が増えた。
なにより、姉は将来の夫と大事な家族である妹が親しくなってほしいと考えているようで、燐太郎にも鼓にもそれを伝えていた。少なくとも燐太郎は、言われずとも義理の妹と話をすることを本心から楽しいと感じていて、それは家族になるからというだけの理由ではなく、少なからず鼓に対して関心持っていたからであり、従ってサヤの願いは簡単に叶った。
「忍修行を、はじめたそうですね」
「……頭領からなにか、聞いたんですか」
河原で話したあの日より鼓の表情は感情を帯びてはいなかったが、それも本格的に忍修行をはじめたからだろうと思えばそれほど疑問はもたれなかった。
「えぇ。心なしか嬉しそうにしていましたよ。なんだかんだ言ってもあの人は忍の才能というものが好きで仕方ないらしい。なにせ未だに僕に勿体ない勿体ないと言ってくるんですから」
「それは……鬱陶しそうだし止めるよう言っておきます」
「ありがとうございます。まぁ、嫌われるよりは良いんですが……」
そこまで言うと彼は言葉を区切り、わざとらしく周りを確認してから小声になって言った。
「義父さんがその話をすると、サヤがあまり良い顔をしないので困っていたんです」
まァ狭量なコト! と言いたいのを鼓は押し殺して。
「姉は忍になりたかった人ですから」
と答えた。
降り積もる苛立ち、己の中にある悪意に気づきながら、それでも姉の優しさを愛しているのも事実だった。だから鼓は強い嫉妬を抱えながらも表情にそれはなく、そして一方で本心から二人の幸せを願っていた。
だからこの家の中は平穏だった。
むしろ、変わったのは蒲である。二人が婚約してからというもの蒲は鼓の前に現れることがさらに増えた。
「お前も忙しいだろうに」
「そうでもねェよ。任務の少ねェ時期もあんのサ」
嘘か本当か分からないようなことを言って、でもアタシもそれを確かめようとは思わなかった。話しかけてくれることが嬉しかったから。それがもしかしたら蒲の負担になっているのではないかと思いながら、でも無理をするな、辞めろ、とは言えなかった。曖昧な言葉で蒲の様子を伺うだけ。
口先ばかりの心配の言葉を重ねる自分に、余計、自己嫌悪がつのる。けれどそれすら蒲には見透かされているような気がした。……アタシがそう思いたいだけかも、しれないけれど。
色々なことを考えたり、感じたりするのが辛くなって、以前にも増して修行に明け暮れるようになった。姉さんは前よりアタシの帰りが遅くなったりするのを心配しないし、頭領はアタシが日増しに腕をあげていると喜んでいた。
アタシも、限界まで体を動かしていれば意識を失うように眠ることが出来てその方が楽だった。
そういうやり方に、やっぱり蒲だけが少し何か言いたそうな顔をしていたけれど、彼は何も口にはしなかった。ただ、時折じっとこちらを見て黙っているので、アタシはその時だけ少し反省して珍しく風呂に湯を張ってつかり、いつもより早めに布団に入った。
***
「よォ、ここんとこよく来るなぁアンタ」
姿なく降ってきた声に、お茶をいれる手を止めて顔をあげる。
「こんな夜半に何の用でしょうか」
さして驚いた風でもなく、丁寧な姿勢を崩さないまま燐太郎は尋ねる。
「そりゃァこっちが聞きたいねェ。頭領がちょっと遠出してるからって随分あけすけなことで。おかげで鼓はこんな夜中に山の方まで行っちまったよ」
「山、ですか? はずれの下流の方ではなく?」
「オォ、知ったふうな口きくねェおニイさん。アンタが来るかもしれないところは逃げ場所にしなくなっちまったんだよ」
二人分の湯呑みを持っていた彼は、台所にそれを置いたまま玄関へ向かう。
「行ってどうする!」
いつもの馬鹿にしたような余裕たっぷりの声ではなく、明確な怒りを孕んだそれは強く、鋭い声で怒鳴った。まどろみのなかにあるサヤには決して聞こえぬよう押し殺しながらも。
「行ってから考える」
彼もまた短く答えた。
「なぜ!」
「なぜ?」
状況に相応しくない問いだと感じ思わず声の方を見る。むろん、そこには誰もいない。けれども、今ばかりは怒気を孕んだ気配がかすかに感じられる。
「そうだ。なぜ! お前があいつの元へ行く必要がある! お前はせいぜい今にも寝ちまいそうなあのオンナのところへ行って、朝まであいつが出ていったことを知られないようにすればいい。まさか心配しているわけでもあるまい。今や、すぐにでも修行を終えても構わないとまで頭領に言われたあいつのことを」
「……体の心配はしていませんよ。心の方です」
「今更なにを!」
「大事なお姉さんが他の男と寝所に入っていくのを見て、家を出るような繊細な子供を放っておけと?」
その言葉を聞いて、余計に蒲は苛立った。だから、言うつもりのなかったことを思わず口にしてしまった。
「鼓が傷ついているのは、お前を好きだったからだ!」
癇癪をおこした女のようにそれは叫んだ。
けれども、そこにいる男にとっては大した意味を持たない。
「……知っていますよ」
その無感情な男の前では。
むしろ、痛みは、衝撃は、自分へとはねかえる。
「知って……? 知っていて、あいつの前で、女を愛するか……やはりお前たちは似合いの夫婦だよ。腐った人間どもがァ」
「まるで自分はそうではないみたいな言い方ですね」
蒲の罵詈雑言も、燐太郎の前ではかわいらしいものだった。
「なにを……!」
「君もずいぶん卑怯ではありませんか。本当は鼓が欲しくて仕方ないくせに、側にいるだけで何もしない。それどころか、まるで彼女が自分の方を見ないのは僕のせいかのような口ぶりだ」
「オレは忍だ! 側にいる以外にしてやれない……!」
「ならば辞めてしまえば良い。それとも次期頭領の座を失うのはやはり惜しいですか。そういうことなら、つくづくあなたがたもお似合いだと思いますよ。二人揃ってサヤを苛つかせるのがよく分かる」
「……なんだって?」
蒲はもはや先程までの怒りすら保てず、ただ燐太郎の言葉に狼狽する。
「勘のいい君なら気づいているでしょう。サヤは鼓のことを純粋に大事に思っているわけじゃない。彼女は本当は自分こそが頭領になりたかった。だけど、彼女にその資質はなかった。だから頭領も途中で彼女の修行をずいぶん簡単なものへ変えたと聞きました。ところが、あなたや鼓は溢れんばかりの才能がありながら忍でいることを迷っている。忍という生き方よりも重要なことがある。彼女はどんなに努力しても手に入れられなかったものを持っていながら、まるでそんなの大したことが無いみたいにあっさりと手放そうとする。その姿にどれほど彼女が嫉妬し、そしてそれを押し殺すために苦しんだか、君たちには分からない」
挑発するような自分の物言いに、知ったことか、と怒鳴られると思った燐太郎は次の言葉を考えていたが、返ってきたのは以外にも、小さな、悲しげな一言だった。
「お前がそれを言うのか」
それは消えいるような声で。
予想しなかった反応に、思わず言葉に詰まる。けれど再び口を開くのを待たずに蒲はもう声を荒げることなく告げた。
「やはりお前はオンナのところに戻れ。お前の言う通り、オレはもっと早く動くべきだった。だが今からでも遅くはないだろ。鼓は、鼓の心はオレが守る」
「……分かりました」
あまりにも冷静に、穏やかに言われたのでそれ以上の問答は不要だと感じた。
「あァ、待て。一つだけ教えてくれ」
「なぜ、お前は鼓の心を知って、サヤの心を知って、それでなお──一瞬でもアイツを優先しようとしたんだ」
なぜ、寝所で彼がお茶を持ってきてくれるのを待って幸福な心地に浸っている女に一言もなく、山へ行った哀れな娘の元へ行こうとしたのか。何もかも知っていて、即座に蒲にまかせるように誘導することも出来たというのに、それが一番簡単で面倒がないのに、なぜ本気で焦って着の身着のまま玄関へためらわず向かったのか。
そのせいで、こちらまで焦らされた。
「……最初に、彼女を見かけたときの表情が、忘れられなかったから」
「は」
意味が分からず間抜けな声をもらした蒲を置いて、彼は自分の言葉に一人納得し、穏やかな微笑みを作り直すともはや心も言葉もその微笑みのうちに包みこんで。
「将来の家族のことを大事に思うのは当然のことだろう? 僕は、できれば君とももっと仲良くなりたいと思っているよ。なにせ、君もいつか義弟になるかもしれないからね」
嫌味なのか本当にその可能性を考えているだけなのか、分からない顔でそう言うと、男は台所へ戻っていった。
「分からねェ、分からねェよ。ナァ、分かるのはお前の周りにいる男はみィんな屑ってことだけか……」
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