思色の打掛 12

12

※一部残酷な描写があります

あらすじ
明治中期~後期にかけて忍の里を舞台にした物語。
帝都から里へ帰ってきた燐太郎《りんたろう》に、忍修行中の少女 鼓《つづみ》が一目惚れするところから始まる。洋装を着こなし、優しげに笑う燐太郎に心惹かれる鼓だが、程なくして姉のサヤと燐太郎が婚約したことを知らされる。ショックを受けながらも大好きな姉を祝福する鼓。けれど、幼い頃から鼓を気にかけて助けてくれていた蒲《ガマ》はサヤに対して懐疑的で……。
様々な思惑が巡りながら、才能とは何か、自分にとっての幸せとは何なのか、探し、悩み、苦しみながら美しい悲劇へと向かっていく。

   【12】  一週間は瞬く間に過ぎ去り、そこそこの収穫と共に俺達は寂しがって泣くロバートを残して帝都を離れた。  またしても自動車で送らせてくれと言うロバートを説得するのが一番の苦労だったかもしれない。正直、この距離だと汽車と馬車を乗り継ぐほうが気楽だった。  次も必ず清と一緒に来てくれという願いは果たせるかどうかわからないが、手紙を書くと約束して、なんとか彼の気持ちを収めたのだった。  帰り道は、行きよりもあっという間で、気がつけば里までもう間もなくでつくところまで来ている。そうして少しづつ里が近づくにつれて、清は鼓へと戻っていく。 「鼓、改めて今回は助かった。ありがとう」  乗り継いで最後の馬車で燐太郎はほとんど返事を期待せずに言った。もう、目線が合うことはない。 「俺は、もう少し悩んで、探してみるよ。見つかるまでは今の仕事を続けようと思う。きっと向いているし、新しい物に出会うことは楽しいからな」 「……好きにしたら良い。お前が命を狙われるくらいの身分になったらまた雇われてやろう」 「あぁ。その時はまた清と呼ばせてもらおうかな」  チッと舌打ちだけしてそれに返して、それ以降、二人は里に着くまで会話をすることは無かった。    *** 「おかえりなさい!」  少し目立つようになった腹部を大事そうに抱えて、屋敷の前で手を振る姉が見える。それを優しく抱きしめる燐太郎を横目にさっさと自分の分の荷物を持って屋敷へ入ろうとする鼓にサヤが声をかけた。 「鼓! 鼓もお疲れ様。長旅で大変だったでしょう」  優しく微笑み、両の手を広げて抱擁の姿勢をとる姉を──貴女にとって自らの命に等しいその腹を無防備に見せる、アタシへの無意識の信頼を、どうして返すことが出来よう。 「……いいえ、ちっとも大変ではありませんでした。帝都はとても楽しかったですよ。姉さん」  アタシは笑っていた。悪意を持って。その意味が伝わらぬほど愚かな姉ではないだろう。 「食べ物も美味しかったし、義兄さんがお土産も買ってくれたので」  ピクリと姉の瞼がわずかに開き、広げられた手はあてどもなく宙をただよった。 「そうなのね。楽しかったなら良かったわ」  一瞬の不安そうな顔をすぐに笑顔へ整えて。  鼓もまた表情を変えず、義兄の方を見上げて言う。 「義兄さん、これでアタシの仕事はおしまいですから。頂いた物は大事に致します。では、また」  そう言って、今度こそ消えた。 「……燐太郎、鼓に何を買ってあげたの?」  微笑んで尋ねる彼女の危惧を知ってか知らずか。 「あぁ、懐中時計だよ。それよりサヤ、早く家の中に入ろう。体が冷えたらいけない」  そう言って、背中に手を添えられながら屋敷の門をくぐり、間違いなく自分は大事にされているはずなのにこの言いようのない不安はなんだろう。  懐中時計は、高価だ。けれどもそんなことを気にしているのではない。夫が、妹のことも大切に思っていることは嬉しい。そのはずなのに。 「そうだ、サヤにも土産があるんだ。甘いもの好きだろう。それと、帯留めを。本当はかんざしのほうが良いかと思ったんだが、あまり良い柄がなかったんだ」  気にかけてくれて、その眼差しも、贈り物も、全て私のことを考えてくれていることが伝わってくるのに。 「ありがとう。嬉しいわ。お茶いれるわね。一緒に食べましょう。帯留めも嬉しいわ。付け替えてこようかしら」 「あぁ、じゃあ俺がお茶を入れてくるから、その間にゆっくり付け替えたらいいよ」 「あらじゃあそうするわ。ありがとう」  台所へ向かう夫。おそらく他の家の父親よりずっと家事もしてくれて、子どものこともよく考えてくれている。家事や子育ては女の仕事だという感覚が彼にはあまりないらしく、まだ婚約関係だった頃に洗濯物を運んでいると重そうだからと持とうとしてくれた、それを私がこれは自分の仕事だからと断ると、心底不思議そうに首を傾げたのを覚えている。結局持ってくれて、洗濯物を干すのも手伝ってくれた。最初は彼の家庭環境が他の家より先進的なのだろうかと思ったけれど、お義母様と話すかぎりはそういうわけでもなさそうだった。  なんにせよ、こんな素晴らしい夫はどこを探しても見つからないはずだ。私が想像していた『良い家庭』というものを越える幸せが、今あるのだから。 「お、留められたのか。やっぱり可愛いよ。よく似合ってる」  湯呑みを二つ持ってきた夫は、食台にそれを置きながらすぐに褒めてくれる。その笑顔が、どうしてこんなに不安にさせるのかしら。 「食べようか。開けるね」  お菓子の箱を開けて湯呑みと一緒に持ってきた皿の上へ置いてくれて。 「……ねぇ、あなた。出張はどうだった?」 「うん。上手くいったよ。友人の助けもあってね、話が盛り上がってあっさり商談成立。拍子抜けするくらい順調だったな」 「そうだったのね。良かった。どんな話をしたの?」 「そんな面白いことじゃないよ。ついてきてくれた友人と、相手が同じ英吉利イギリス出身だったから故郷の話になって、俺はそれに相槌を打ってたくらいさ」 「え、宿を貸してくれるっていう友達って外国の人だったの?」 「あぁ、言ってなかったか。そうだよ。学生時代の友人でね」 「そう……だったのね。でもそれじゃあ話を合わせるだけで大変そうね。言葉も違うでしょう?」 「いや、向こうはこっちの言葉も普通に喋れるよ。俺も少しくらいなら英語は話せるし、コミュニケーション──……つまり、普通に会話をする分には大した問題は無いな」 「そうなの。すごいのね」 「いいや、適当さ。それより、一週間こっちではどうしてた? 母さんに側に居るよう頼んどいたけどなんか面倒なことを言われたりしなかったか?」 「まさか! とっても親切にしてくださって。お料理も作って下さったのだけど、それがすごく美味しいの。他にもあなたの子どもの頃の話を聞いたりして、楽しかったわよ」 「それは良かった。ずっと気がかりだったんだ。つわりも落ち着いて来たとはいえサヤを置いて一週間も家をあけるのは」 「気にしないで。本当なら私もお仕事について行きたいくらいだったんだから」 「それは頼もしいな」  ははは、と彼は笑った。違うの。私、本気なのよ。ねぇ、私のことを心配してくれるけれど、あなたの話はあまりしてくれないのね。一週間もお仕事で帝都まで行っていたというのに、あれだけ準備をして出かけて行ったのに。話すことはそれだけ? 行く前に色々と聞かなかったのは準備の邪魔をしたくなかったから。帰ってきたら教えてくれると思っていたから。  どうして、向こうでの話をしてくれないの? 私には分からないと思っているの? もちろん五年間も向こうで暮らしていたあなたに、そう簡単に知識で追いつけるとは思ってないわ。でも私、この先もずっと家であなたの帰りを待っているだけのつもりは無いの。あなたが家のことをするように、私も当たり前のようにあなたの仕事を理解して、一緒に働きたい。    ねぇ、どうして、鼓に懐中時計をあげたの?    私に西洋の品を贈ってくれたことは、一度もないのに  ──サヤの不安は、少なからず当たっていた。  鼓に懐中時計を買ったことは、単に店を回っていた時にそれが良いと本人が言ったからだが、サヤの土産に西洋の品を買わなかったのは喜ばないと思ったからだ。それは言い換えるならば、価値が分からないと思ったから。燐太郎は決して物の価値が値段だけと思ってはいなかったが、どうせなら値段分の価値が分かる人に贈りたいとも思っていた。  出張先での話をしなかったのは、鼓が指摘したようにそれほどの成果を感じなかったという気持ちもあったかもしれないが、やはりどこかでサヤに話しても分からないと思っていた。実際、それは事実だった。  帝都に行ったこともなければ国外の人間と話したこともないサヤに、燐太郎が感じたことを伝えるのは困難だった。食べ物ひとつとっても、おそらく言葉をつくして説明した所でサヤには想像できない。  彼女が帝都について行きたかったと言った時、彼がそれを笑ったのは、鼓やロバートより遥かに役に立たないと思ったからに違いなかった。だから冗談として受け流したのだ。  サヤは決して不出来な女性ではなかった。  女学校での成績もよく、好奇心旺盛で卒業してからもよく学んだ。外国の文化も勉強していたし、商売についても全くの無理解ではなかった。  それでも、燐太郎のもつ感覚とはあまりにもかけ離れていた。もしかしたらサヤも、帝都へ行って数年暮らせば充分にその感覚に近づけるのかもしれなかったが、しかしそれは、今の話ではない。  サヤは、今、不安だった。  そして燐太郎は、今のサヤに仕事のことをあれこれと話す気は、無かった。  それでも、子供を生んで少し落ち着いたらそんな不安も無くなるくらい学べば良い。自分が仕事の役に立てると示せばきっと燐太郎は見直してくれるはず。  不安なのは、今だけだ、と。聡い彼女は思おうとしていた。

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