16
※一部残酷な描写があります
あらすじ
明治中期~後期にかけて忍の里を舞台にした物語。
帝都から里へ帰ってきた燐太郎《りんたろう》に、忍修行中の少女 鼓《つづみ》が一目惚れするところから始まる。洋装を着こなし、優しげに笑う燐太郎に心惹かれる鼓だが、程なくして姉のサヤと燐太郎が婚約したことを知らされる。ショックを受けながらも大好きな姉を祝福する鼓。けれど、幼い頃から鼓を気にかけて助けてくれていた蒲《ガマ》はサヤに対して懐疑的で……。
様々な思惑が巡りながら、才能とは何か、自分にとっての幸せとは何なのか、探し、悩み、苦しみながら美しい悲劇へと向かっていく。
【16】
葬儀に出かけていった夫を待ちながら、庭の草木が揺れるのを見て、彼女は我が子の名前を考えている。いくつか候補はあるのだがどれも決め手にかけた。
ふぅ、とため息をつき、日増しに大きくなる腹を撫でる。愛しい子、この世のなによりも大切な子……そう思って。自然の音に耳をゆだねまどろんでいく──
すると、ふいにキシキシと床が鳴る音が聞こえて彼女は少し意識を起こした。
まだ夫が帰って来るには早い。父はずっと自室にいて、ここの廊下を通ることはないだろう。となったら、彼女はすぐに一人の人物に思い当たった。
完全に覚醒してはいない意識の中でその人物の名を呼んだ。
「つづみ、帰ってきてくれたのね」
足音は呼びかけに応じるように止まった。
「よかった。ずっと寂しかったわ」
ザァッと葉が散るのを見ながら振り返ること無く──それは腹の子の重さによって後ろを向くことさえ今の彼女には大変なことだったために──言った。
「ねぇ鼓、私、この子には鼓とも仲良くして欲しいの」
なぜ、鼓がかくも彼女を避けたのか、知りもせず。まるで素晴らしい考えかのように。
「鼓、この子の名前、考えてくれないかしら」
プツリ、と頭の中で音がした。見開かれた少女の目は、憎悪に染まる。
刹那、それは自らの意識に上るよりも早く手が、足が、動いて。
──突き刺さった短刀
自らの手にしっかりと握られたそれ
おおきく膨れた腹から 勢いよく吹き出す鮮血
耳をつんざく悲鳴
恐怖と絶望にそまる瞳
それら全てが自らの行いによって
椅子も 畳も 天井までも眩しいほどの赤色へと変わる
笑っている 笑っている
アタシは笑っている
声をあげて
全身に姉さんの血を浴びながら
口の中を 鼻腔を 朱が満たす
それは生命の放つ臭気を伴って
知っていた 分かっていた この衝動を
失われた恋情は嫉妬へ変わり
嫉妬は苛烈さを極め憎しみとなった
知っていた 分かっていた
あなたの腹を見れば その子を認めてしまえば
きっとこうなることを
あぁ だから 努めていたのに
この家へ帰らぬように 行き慣れたこの廊下を歩かぬように
けれど 崩れた均衡が 僅かな歪みが 全てを壊した
姉への愛が アタシの中に残された幼さが
全てを──
姉さん
アタシあなたに慰めて欲しかったの
人を殺した それは一緒に育った人だった お金が好きでちょっと馬鹿なのは知っていたの
でも優しかった 才能がなくって訓練のときは相手にもならなかったけど
くすねた飴をくれたことがあった あとで見つかってひどく怒られていたけど
苦しまないように殺してあげた 早く死ねる薬を食べ物に一振り あっさりと死んだ
家族に余計なことを言わないように あの人の大事な人まで殺さなくて済むように
アタシちゃんと仕事をしたの
だから さや姉 流石ねって言ってよ
怪我してない? 大丈夫? って心配してよ
さや姉 どうして 逃げていくの
どうして何も 言ってくれないの
見て アタシこんなに泣いてるの
這いつくばって どこへ行くの?
「燐太郎! 燐太郎助けて!!」
いないはずの夫を呼び泣き叫ぶ姉を見下ろして、鼓は全身からぼたぼたと血を滴らせながら佇んでいた。
***
燐太郎が事を知ったのは葬儀が終わり日も暮れきってから、家に戻ってきて、血まみれの廊下を見たからだった。
当然、彼は何事かと思い、即座に義父の部屋へ行った。外出の用事が無ければ大抵はそこにいるはずだったからである。
焦りのあまり断りもせず、ガコンッと強い音ともに引き戸を開ける。
「──……お前か」
確かにその人はそこにいた。一瞬の安堵。
「お義父さん。廊下の血は一体……!」
「落ち着け。ひとまず、サヤが寝室にいる。顔を見せてやれ」
わけも分からず俺は言われたとおりにサヤの部屋へ行った。
戸の前で声をかけるが返事はない。ゆっくりと襖をあける。
そこにはすぅすぅと寝息を立てて眠る彼女がいた。顔色が悪い。しかしどこにも痣も切り傷もなく、誰かと争ったようには見えなかった。そもそも、家にはずっと義父がいたはずだ。誰か不審な者がやってきてもすぐに対応できるはず。
いったい何が……? そう思った時、気づいた。
真っ白い布団のかけられた彼女の体に、確かにあったはずの膨らみが亡くなっていることを。
最初、燐太郎は自分のいないあいだに予定より早く子が出てきてしまい、そのためにひどく出血したのだろうかと思った。死産となれば義父があんな顔をしていたのも理解できる。けれど、そうではないことを、燐太郎の気配によって目覚めたサヤが告げた。
ゆっくりと、目を開けてから、彼女は心配そうな顔で自分の側に座っている夫を見て、はくはくと空を噛み、震えながら涙を流す。
「さや、大丈夫だ。ゆっくりでいい。大丈夫だから」
目を真っ赤にして泣く彼女の頭に優しく手を添える。
「り たろ ……わ、たし、ごめんな、さい」
「さやが謝ることは一つもない。大丈夫だ、まずは体を休めよう」
「ちが、うの……わたし、わたしが、もっと気をつけてれば」
震えながら彼女は言った。彼女にとっての真実を。
「気をつけてれば……蒲に、奪われたり、しなか た」
一瞬、カッと頭の中が燃えるように熱くなる。信じられない言葉に。
そして追い打ちをかけるように後ろから声がかかる。それは少なからず落胆しているらしい義父のもの。
「サヤの言った通りだ。蒲が突然サヤを襲った。すぐに私が処置を行ったからサヤは助かったが、子供は駄目だった」
子供、という言葉に反応して、サヤは慟哭する。おそらく薬が効いているとはいえ強く痛む腹を、気にもせず半ば暴れるように泣き叫ぶ。
かけられる言葉が見つからず、ただ抱きしめてやることしか出来なかった。そこへ義父は冷たく言い放つ。
「サヤ、蒲はすでに私の手で処分した。今回のことは忘れなさい。ひとまず体の傷を治すことに専念するように」
それだけ言うと、その人は部屋を出ていく。おそらくそんな言葉など聞こえていないだろうサヤをかえりみることもなく。
「大丈夫、大丈夫だ。側にいるから」
そう言いながら血をにじませしがみつくサヤをなんとか布団へ寝かせる。
「今は何も考えずに眠ったほうが良い。頭領からよく眠れる薬を貰ってこよう」
愛情をにじませた声色を出しながら、燐太郎は目の前の出来事を見てはいなかった。子供を失った悲しみに事態が飲み込めないわけではない。義父の配慮のない物言いを腹立たしく思ったわけでも、サヤの嘆きを煩わしく思ったわけでもない。
ただ彼は一つの言葉を頭の中で反芻し続けていた。
『蒲はすでに私の手で処分した』
上の空のまま、彼は立ち上がり自分がどこに向かっているのかもよく分からないまま目的も忘れ屋敷の中を歩いていた。
ぼんやりと、気がつけばそこは鼓の部屋。
戸を叩く。反応はない。もう一度叩く。やはり反応はない。何も言わず開けた。
──そこで燐太郎が見たのは、部屋中に散らばった鏡の破片と、ベッドの上、白いシーツの上に広がった赤黒い染み。
それは、帰ってきてすぐに見た廊下や畳の上にあったあの色と、同じ。
「来たのか。ここに。そうだ、蒲は、サヤを襲ってすぐに、鼓の部屋へ来たんだ」
そしてそのあと、サヤの手当を行った義父によって殺されたのだろうか。だとしたら、今、鼓はどこに──? 蒲は、最期に鼓に会うことも出来なかったのだろうか。
義父に聞けば知っているだろうか。そうだ会わなければ。薬を貰おう。
支離滅裂な頭の中で、蒲の笑い声がこだまする。鼓の姿がよぎる。鏡の前でうずくまっていたあの日の鼓。助けてくれと言った蒲。
二人は どこに どこへ
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