17
※一部残酷な描写があります
あらすじ
明治中期~後期にかけて忍の里を舞台にした物語。
帝都から里へ帰ってきた燐太郎《りんたろう》に、忍修行中の少女 鼓《つづみ》が一目惚れするところから始まる。洋装を着こなし、優しげに笑う燐太郎に心惹かれる鼓だが、程なくして姉のサヤと燐太郎が婚約したことを知らされる。ショックを受けながらも大好きな姉を祝福する鼓。けれど、幼い頃から鼓を気にかけて助けてくれていた蒲《ガマ》はサヤに対して懐疑的で……。
様々な思惑が巡りながら、才能とは何か、自分にとっての幸せとは何なのか、探し、悩み、苦しみながら美しい悲劇へと向かっていく。
【17】
呆然としたまま、燐太郎は義父の部屋へ向かっていた。
「くすり、くすり、くすり、くすり」
やるべきことを忘れぬよう唱えながら。そうでもしなければ、頭の中が蒲のことで埋め尽くされてしまいそうだったから。
長い廊下を歩いて、やっと義父の部屋の扉から漏れる光が見えてくる。ずいぶん、扉の前が明るい、と思った。閉まっている扉からもれる光などわずかな線に過ぎないはずなのに、と。そして重い足を引きずって歩き、扉が半ば以上開いていることに気づいた──次の瞬間。
「殺して!!」
叫ぶ声とともに、その姿を見た。
床に伏し、それは血まみれの姿で懇願していた。
「アタシを殺して! 姉さんを刺したのは蒲じゃない! アタシだ! アタシはあの腹の子が憎かったんだ! 姉さんが憎かった! でもそれ以上に! 姉さんにも、義兄さんにも愛されるあの子が許せなかった!」
義父は、泣き叫ぶ鼓を一瞥もせず告げる。
「サヤが蒲だと言ったんだ」
「違う! 姉さんはアタシがやったなんて思えなかったんだ。だから、蒲だと思い込んだ。でも違う! 分かってるでしょう! 父さん!」
喉から血が出そうなほどの叫びだった。それでも、あの人は娘のことを見ない。
「お前を殺して、何になる。腹の子も失い、お前も失えばサヤは余計に立ち直れなくなる」
「アタシを生かしておけば、いずれ姉さんを殺します! それでも良いというのですか! 知っているでしょう! アタシが! どれだけ燐太郎義兄さんを愛しているか!」
ドン、と音がする、迂闊な俺が思わず後ずさり壁に背を打った音。しまったと思ったときには二人の目がこちらを見ていた。
一方は無感情に、もう一方は恐怖を一杯にこめて。
「あ、ァ、アぁ、あああぁあアァアア!! 違う! アタシは姉さんを傷つけたくなんか無かった! 違うの義兄さん!」
その瞳は恐怖に見開かれて。そして次の瞬間彼女は信じられないことを言った。
「そうだ! オレが殺そうとしたんだ! 刺したのはオレだ! 鼓じゃない!」
聞き覚えのある。俺が探していた声。
「あのオンナが、馬鹿みたいなことを言ってきたから、殺してやろうと思ったンだよ! あの瞬間入れ替わって! オレが膨れた腹を刺してやったのさァ!」
それは笑いながら泣いていた。怯えながら、笑っていた。
──The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde イギリス人作家の小説のタイトルを思い出す。
一人の人間が、薬を飲んでまったく別の性格、姿になり事件を起こすという奇妙な物語。ロバートに勧められて手伝ってもらいながら翻訳に苦労して読んだのを覚えている。
彼女の状態は、まさにそれに出てきたものとよく似ていた。
鼓は蒲であり、蒲は鼓なのだ。
声も、性格も違う二人。けれど、背格好は確かに同じだった。蒲の性別が男でないことには薄々気づいていたのだ。あの日、結婚式を挙げた日、蒲が鼓を助けてくれと言った日。初めて蒲を見て、あまりに薄い肩に驚いた。それから度々姿を表し、見るたびに、それが女性であると思った。確信こそ無かったが。
しかし、思えばあれほど親しいはずの二人を同時に見たことは一度も無かった。
結婚式のあとから姿を現すようになったのは、鼓が正式な忍となり眉を落とし、変装が容易になったためだろう。二人なら、表情で、話し方で、仕草だけで、特別な変装などせずとも別人に見せるだけの技能が充分にあった。
では、一番最初に俺が見た、あの木の陰で笑っていた少女は、誰だ。
「いつから、二人は……」
こぼれた問いに、義父がやっと、口を開いた。
「私が気づいたのは、これが六つの時だ。修行を見ていると、突然目つきが変わる。体の使い方も、気配の消し方も、急に上手くなった。おそらく、それが蒲だった」
「そんなに、前から気づいていて、ずっと、誰にもばれずに隠してきたんですか」
「本人さえ知らないことを、誰にどう言う必要がある。知ってしまえばどちらも壊れる。まさに、今のようにな」
床に伏し、呻く彼女を目線だけで指して。
「鼓が父を殺したと言っただろう。あれも、恐らくは蒲の意識によるものだろう。でなければ、鼓はあの歳ではまだそこまでの芸当は出来なかった。目が覚めて、何も覚えていなかったのも、蒲のしたことを鼓は認識出来ないからだ。私はすぐに蒲の出生記録を偽造した。一人ではなく、二人として扱うことにした。蒲もそれに賛同した。鼓と違って、蒲は鼓の記憶を引き継いでいたからな」
では、蒲はずっと全てを知っていて、鼓を守るためだけに生きていたというのか。それは一体どんな思いで……。
「これで分かっただろう。サヤを刺したのが蒲だろうが鼓だろうが同じことだ。それならアレが思い込んでいる通りにすればいい。どうせ何も気づかん」
「……同じじゃない」
そう言って、泣いているのはどちらなのか。
「オレは蒲に罪を押し付けたくなんかないンだよ。同じじゃない。アタシたちは、同じじゃない……。サヤを殺そうとしたのはオレなんだよォ」
混ざり合った人格はもう限界だった。
「まぁ、いい。そうまでアレを殺したいならそうすれば良い。そこの男が欲しいなら私が与えてやろう。そうしたらまた二人で仕事に戻ればいいだけだ」
座り込んだ少女は顔をあげ、呆然としたまま言った。
「何を言ってる……? アンタ、正気か?」
言われた男は笑い飛ばした。よほど正気を失っている様相の少女に言われたのがおかしかったのだろうか。それとも、今更だと思ったからだろうか。
その視線は、少女を離れまっすぐ俺を射た。
「燐太郎くん。君もどうせもう子供を産めない女より、新しい女の方が良いだろう。約束通りこれからも商売の援助は続けよう。君は何も変わらない。番う女が少し若くなるだけだ。むしろ喜ばしいじゃないか。アレよりはこっちのほうがずっと役に立つ。蒲の機嫌さえ取っておけば良い。少々ややこしいが、それも君なら上手く出来るだろう」
悠然と、俺が断れるとは思っていない男は言った。柔らかな微笑みまで称えて。人は欲によってここまで狂えるのか。俺は、こうなりたいと思っているのか。
「……そこまでして、二人の才能を使いたいのですか」
「当然だ。言っただろう。私は何を犠牲にしても才能を活かすことだけが生きがいだ。言い換えるなら、それ以外はどうでも良いんだよ。君にもいずれこの感覚が分かるといいが」
まだ難しいか、と子供に言うようにそれは眉を下げて笑う。
「……分かりました。鼓と婚約しましょう」
小さく息を飲んだ女に、ゆっくりと歩み寄り、俺は跪き手を差し出す。
「鼓、蒲、ふたりとも大事にするよ。俺と一緒に生きてくれ」
「ちがう、ちがう、アタシ、そんなこと、ちがう、ちがうの」
震えながらうわ言のように彼女は口の中で何度も繰り返す。
「大丈夫。これからは俺が一緒だ」
言って、抱きしめられた彼女たちは、だらりと体の力を失って──全ては流されるまま。
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