思色の打掛 18

18

※一部残酷な描写があります

あらすじ
明治中期~後期にかけて忍の里を舞台にした物語。
帝都から里へ帰ってきた燐太郎《りんたろう》に、忍修行中の少女 鼓《つづみ》が一目惚れするところから始まる。洋装を着こなし、優しげに笑う燐太郎に心惹かれる鼓だが、程なくして姉のサヤと燐太郎が婚約したことを知らされる。ショックを受けながらも大好きな姉を祝福する鼓。けれど、幼い頃から鼓を気にかけて助けてくれていた蒲《ガマ》はサヤに対して懐疑的で……。
様々な思惑が巡りながら、才能とは何か、自分にとっての幸せとは何なのか、探し、悩み、苦しみながら美しい悲劇へと向かっていく。

   【18】 「おはよう」  ゆるやかに意識が覚醒し、そこが自分の部屋ではないが、馴染み深い木の匂いから自分の家であることは分かった。  あの後、気を失って客間にでも運ばれたのだろう。額の上にひんやりとした布があたる感覚があり、気持ち悪くなってそれをどけながら体を起こす。  そうして、横に座る穏やかな声の男が、まるで何事もなかったかのように無警戒に微笑んでいる姿を見て、それが現実のものと思えなかった。  それは、その笑顔のまま話し出す。 「婚約はまだ公には出来ないけど、サヤには傷が塞がったら療養のために少し離れた場所へ移ってもらうつもりだ。この家では落ち着かないだろうからね。しばらくは俺もそこに通うことになるだろう。サヤの子供は表向き死産だったことになる。だけど、そのうち精神が不安定なサヤに疲れた俺を鼓が支えてくれて、だんだん気持ちがそちらへ向きはじめ、鼓の年齢が十五になるころには正式な夫婦に、という筋書きだ」  何を平然と言っているのだろうか。 「あぁ、そうだ。これは少し気になっていたんだけど、鼓はもしかしたら少し前から蒲の存在に気づいていたんじゃないか?」  男は濡れた手ぬぐいを受け取り、またタライに満たした氷水につけるとそれを絞りながら思い出したように聞いてきた。 「……だったら、なに」 「いや、別に何もないんだ。ただ、あの頭領もそのことには気づいてなかったんだと思うと少し可笑しくてね」 「何が、おかしい。自分が何をしているか、分かっているのか? 姉さんを見捨てるって言ってるんだ。父さんも、お前も、狂ってる」 「狂ってるのは鼓も一緒だろう。俺のことを諦めようと、たえて、たえて、その結果がこれだ。きっと、狂っていなかったのはサヤだけだったんだよ。最初から。だけどそのサヤも、もう正気じゃいられないだろうな」  男はわずかに目を伏せて、一瞬だけ、妻だった女のことを脳裏に浮かべる。泣き叫ぶ哀れな女。もう少しで完璧な幸福を手に入れるはずだった、母となるはずだった、可哀想な人。 「だけど、そのおかげで俺もやっと欲しいものを見つけたよ」  優しく笑う、美しい男の横顔が、もっと違う形で見れたのなら。まだ許せただろう。 「必ず鼓の望む幸せを作ろう。約束するよ」  障子を抜ける朝日に照らされて、まるで本当に幸せな物語が始まる一頁いちベージ目のように彼は言った。  狂っていく。狂っていく。一度は正しくあろうとしたものが、一度も正しくなかったものが、全てを巻き込んで狂っていく。  本当に欲しかったものは、なんだったろう。    ***  燐太郎の話した筋書き通り、全ての出来事は進んでいった。  サヤは心を病み自傷や他害をするようになった。里の外れで隔離され、幾度も脱走を繰り返したが、それが叶うことはなかった。  燐太郎は里人に分かるように足繁く彼女の元へ通っていたが、疲れているのが目に見えて分かった。そのうち、サヤは燐太郎にも手をあげ流血沙汰にまでなったので、いよいよ燐太郎に、サヤのことはもう諦めたらどうだと言うものが現れた。これも筋書き通りである。サヤが燐太郎を傷つけたのは、離縁することを伝えられたからだった。けれどもはや、そのことを誰かに訴える力は彼女になかった。日々ひどくなる妄言に誰も真剣に取り合ってはくれなかったのだ。  それより前にサヤは鼓にも暴力をふるっていた。姉の看病のために忍を辞めるのではないかとまで噂されていた鼓は、幾度か行った見舞いで、話も出来ないほど暴れるサヤに何も出来ず、程なくして忍へと復帰した。  里のほとんどの人間が、この家の者たちに同情的であった。  それも、全て頭領の思い描いた図だった。  やがて、燐太郎と鼓の仲が噂されるようになったが、否定的な声は少なかった。サヤを思って二人の関係を非難する者もいたが、大半はむしろあれだけ不幸なことがあったんだから幸せになってもいいじゃないか、と言った。  子供を産めないサヤをいつまでも匿っていても仕方ないと言う者もいた。 「燐太郎、アタシ今なら里の人、みぃんな殺せるかもしれないわ」  ふふふっと笑って彼女は言った。ロッキングチェアをゆらゆらと揺らし、はだけた裾から素足を放りだしながら。  畳も、板張りの廊下も全て張り替えられて綺麗になった屋敷の中で、その一室だけが異国の地として造り変えられていた。  和室だった二部屋の間にあった壁を壊し、畳を全て板に変え調度品も取り替えた。床には大きなカーペットが敷かれ、その上に椅子やテーブルが置かれていた。壁にある大きな掛け時計は静かに時間を刻んでいる。  鼓が好きなものを揃えたのだ。彼女が過ごしやすいように。自分の行いを思い出さないように。 「お前ならいつだって出来るよ」  彼は微笑んで言う。皮肉でもなんでもなく、ただ事実として。 「そういえば、ロバートがまた催促してきたぞ。顔くらい見せろって」 「もうあれから二年も経つんだものね。アタシもしばらく帝都に行ってないし」 「まぁ、それももう少しの辛抱だ」  二人は、正式に婚姻関係を結んだ後、里を離れ帝都へ引っ越す予定である。  鼓の父はその才能さえ失われなければ職業を問うつもりは無いと言った。燐太郎がいかに彼女が帝都で活躍できるのかを熱弁するとあっさりそれを了承した。彼女のドレス姿を見たこともその一因であるかもしれない。目鼻立ちのはっきりした彼女の気品をそれはよく引き出していた。むしろ、小さな里の忍たちを束ねるよりも、表舞台に立って世界を相手に悠然と微笑む鼓を想像すれば男は悪くないと思った。……少なからず、これ以上鼓の精神が壊れることを恐れた部分が無かったとは言えないだろうが。  彼女が輝けば輝くほど、あの化け物は喜ぶのだ。  なぜ、それが煌々と在り続けるのか知りもせず。 「父さんは、結局次の頭領どうする気なのかしらね」 「まだそんなに急ぐほどでもないだろ。やたらと元気だしな」 「本当にね。まぁでも、いつ殺されないともしれないでしょう」  誰よりも彼女がそれを望んでいたが、そんなことをしても彼女の欲しいものは手に入らないのを知っていたから、実行に移すつもりはなかった。  燐太郎もそれを分かっているので彼女の雑言に何か言うことはしない。  キィ、キィと椅子を揺らし、時計を眺める。自分の意識がこの世にあることを確認するように。歪み無く進んでいることを、なにひとつ忘れていないことを知るために。  二人は誰から見ても仲睦まじく寄り添い合っていた。  関係が里人の知るところになるころには寝所をともにし、蒲が永遠に手に入れることの叶わなかった鼓の体は燐太郎のものとなった。鼓は、まだ誰の手にも触れていない無垢な娘だった。  蒲は、鏡の前で彼女を犯したのではなく、鏡の中の己と交わろうとした。それこそが鼓に自分の存在を気づかせる危険があると知りながら。それでもその体に触れたかった。そして恐れていたことは現実となり、鼓は蒲が自分の体を姦することが出来ないのだと気づいた。時計の針が、自分の意識と異なる進み方をしていることを知り、やがて明確な意識として蒲の存在を認識した。  叶うなら、そのままゆるやかに二人は一人になるべきだった。けれど全ての歯車は狂い、壊れ、二人の精神を永遠に解離させた。 「愛しているよ」  優しく閨でささやくその声に、返事はない。  ただ、わずかに顔をそむけ涙を流す女の姿があるだけ。  嬉しいはずの言葉は、彼女を切り裂く、自らの女という性を暴かれる苦痛に耐える。  それでも彼女は諦めることが出来ない。  ただ一つの願いのために──。

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