16話 夢うつつ
※小児加害など一部残酷な描写があります
あらすじ
近代ヨーロッパを舞台にした復讐劇。
ある事件により、車椅子での生活をおくることになった少女イネスは、その事件に関わった人間を探し出して自らの手で復讐することを願っている。唯一の味方である元奴隷のルイに協力してもらうが、なかなか犯人は見つからないまま、親の勧める実業家イーザック・フォーゲルの元へ嫁ぐことを決める
最初は互いに利害関係のみで成り立つ冷え切った夫婦関係だったが、ある出来事をきっかけに仲が深まり、やがて復讐へ協力してくれることになるが……。
【夢うつつ】
血の匂いが充満し、目まいのするような惨劇の中、絵画のように美しい二人の姿があった。青年は令嬢の顔についた血を、真っ白なハンカチで丁寧に拭っている。
「この服も、着替えないと、ね。返り血だって分かってしまうわ」
「……そうですね。お手伝い致します」
床に転がっている死体など見えないかのように、二人はいつもどおりの表情で、するすると着替えを行う。真っ赤なドレスが、純白のそれに代わる様は、まるで神聖なもののようにすら見えた。人形の着せ替えというにはあまりにも、血生臭く、人間の着替えのように俗物でもない。
「やっぱり白って嫌いになれないわ」
「お嬢様に一番お似合いの色です」
二人は互いの存在を確かめ合うかのように、見交わし、微笑み、触れ合う。
「お嬢様、どうか、一つだけ最期の願いを聞いて頂けませんか」
「……言ってごらんなさい」
「私にご夫妻を殺した罪を下さい」
イネスの表情は凍り付いた。けれど、ルイはそれを無視して続けた。
「家を燃やしても、遺体が残る可能性はあります。なにより不自然です。全て、この奴隷のせいにして、そうして私は、牢の中で自害致します。最期をお嬢様の剣に捧げられないことは、心苦しいのですが……どうかご容赦を」
「ふ、うふふふっ、良い案ね。確かに一番自然で、誰もが納得するでしょう」
「では、お許し頂けますか」
ルイは安心したようにイネスを見上げた。そしてイネスが微笑んでいるのを見ると、自分も嬉しそうに少し笑った。
「うふ。お前はどこまでもおバカさんねぇ」
「イネス様……?」
「十年あげるわ」
イネスはうなだれて、なにも見てはいなかった。
「逃げなさい。私の罪を背負って、十年の間、逃げ続けなさい」
「なっ、どうしてですか! 助かりたいなどと思ってはいません。苦しんでいる貴女を支えるふりをしながら裏切り続け、命を救っていただいたご夫妻を、見殺しにしたのです。罪を償わせてください!」
「十年逃げて、それでも償いのために死にたいと言うのなら、その時は、好きにしなさい」
イネスにとって、それは賭けだった。十年の間に、彼が何を学び、誰と出会うのかは分からない。けれども、きっとそれらは、彼に生きる理由を与えるだろう。
「……かしこまりました。全ては、イネス様の言うとおりに」
今はただ命令に従って生きることしか出来ないルイ。罪悪感だけが重くのしかかり、死こそが最上の償いであると信じて疑わない青年。
「───火を。私が屋敷を出た後に、火を放ち、あなたはそのまま消えなさい」
「はい」
イネスは二つの遺体を振り返ることもなく、車いすを静かに回す。
「夜は少し、冷えるわね」
頬に当たる風が心地よかった。高揚していた気持ちが少しづつ落ち着いていくのを感じる。暗闇の中、庭園もただの黒い塊にしか見えなかったが、ふと上を見上げれば、吸い込まれそうな夜空が広がっていた。一瞬が、無限のように感じられ、何もかもが遠い昔のことのような気がした。
けれど、屋敷がぱちぱちと燃え始める音と熱で意識は現実に引き戻される。
「イネス様、ご無礼をお許しください」
ふいに後ろから声が聞こえると、振り返るよりも早く、自分の体がふわりと抱きかかえられる。
「ルイ。はやく逃げないと、火事に気付けばすぐに官憲が来るわ」
「分かっております。ただ、お嬢様に万一でも疑いがかかってはいけないので」
そう言うと、イネスを抱きかかえたまま車いすを置き去りにして、ルイは門の前まで歩いた。
「ここまで火が来ることはないでしょう。車いすがなければ、貴女は歩けないただのお姫様ですからね、なにも心配はいりません」
「……そうね」
優しくイネスを地面に横たえると、ルイは深々とお辞儀をして。
「では、これで失礼いたします。どうぞ、お幸せに。イネス様」
「えぇ、ルイ。ありがとう」
ルイは闇にとけるように、音もなく、姿を消した。
その後のことは、あまり覚えていない。官憲が来るまでの間、燃え朽ちる家をぼんやりと眺めていたような気がする。でも、気が付けば、ベッドの上で眠っていて、隣には、心配そうな顔をするイーザックがいた。
「疲れただろう。好きなだけ眠るといい」
その声に安心して、私はまた意識を手放した。少しだけ夢をみたような気がする。昔の夢だった騎士になりたいと言ったら、喜んでくれたおじいさま。優しかった。幸せだった。けれど幸せな夢は突然終わり、次の瞬間、血まみれになって倒れている両親がいた。不思議と冷静で、恐ろしくも、悲しくもなかった。そしてまた暗闇になって、今度は声だけが聞こえた。
『───夢は記憶の整理整頓に過ぎません。怖い夢を見た時は、楽しい音楽を聴いて、温かいココアを飲んで、もう一度眠りましょう。次は楽しい夢がまっているはずです』
『それでも怖い夢を見たら?』
『その時は、僕が夢の中に入って、怖がらせた化け物をみんなやっつけてあげます。僕はずっと、お嬢様の隣にいますから、いつでも助けに行きますよ───』
小さな少女は、救われた。もうなにも恐ろしいものはいない。少女は一人でも化け物をやっつけられる。一緒に戦ってくれる人もいる。だから、もう大丈夫だよ。
夢から覚めたら、やりたいことがいっぱいある。
イーザックとお話もしたい、お屋敷の人とももっと仲良くなりたい。アダルフォに教えてもらいたいこともある。イーザックのお仕事を少しでも手伝ってあげたいの。それからみんなで一緒においしいものを食べたいわ。それから、それから……一人で立てるようになりたいの。リハビリを続けるわ。剣の稽古も、やめないわよ。
お前がいなくても、私はちゃんと生きて、色んなことを知って、学んで、身につけて、きっと立派な女性になるわ。強くて賢くて優しい、とっても素敵な大人の女の人になるの。
だから、お前も生きるのよ。
そして気づいて。あなたは、自由だということを───。
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