エピソード3 冬
あらすじ
穏やかな高校生活をおくる少年。警察組織に所属している父親を持つ彼は、幼い頃親しかった少年と再会するが、少年の父親は暴力団関係者であり、互いに成長した今となってはかつてのように会話をすることはない。しかし彼は思わず少年のことを目で追いかけてしまって……。
四季を象徴としながら二人の関係が変わっていくストーリーになっています。わずかに『薔薇色の男娼』と繋がっている部分がありますが、直接関係はないので片方だけ読んでも困らないはず。
【エピソード3 冬】
現実へと戻った俺たちは、再び別れていく。
否応なく季節は過ぎて高校生活は終わり、俺は結局父親の勧めていた大学へと進学した。一人暮らしはそれなりに気ままで、幸いすぐに友達も出来たのでそれほど孤独を感じることもなく楽しい大学生活だった。大学で初めて知ることもたくさんあって、勉強は楽しかったし成績も良かった。ほとんど実家に帰ることはなかったが、たまに電話で話すと父親は少しくたびれたような声で大学はどうかと聞いてきた。俺が充実していると言うと嬉しそうな安心したような声で「そうか」と言った。
そのまま好成績で大学を卒業し、警視庁に就職した。順調にエリートコースを歩んでいると言えるだろう。俺の階級が上がると父親は我が事のように喜び、母親も心底嬉しそうに褒めてくれた。
……他人からすれば、羨むような順風満帆な人生に違いない。だが、その内実はただ逆らうのにも疲れてなんの目標もなく、ひたすら真面目に生きてきただけだった。人からどれほど認められても俺はそれを生きがいにするほど喜べなかったし、生きている理由が分からなくなっていくばかりで、考えるのが恐ろしくてますます仕事に打ち込んだ。
仕事が生きがいなのではない、生きがいがないから仕事をしていた。
疲れ果てて眠るのでなければ、死にたくなるから倒れるまで働いた。
幸福とは、なんだったか。
そんな問が頭の中から消えてくれない時、俺はまた彼のことを思い出した。高校を卒業した後どこにいったのかすら知らない。今はもう組を継いでいるんだろうか。彼に幸せかと尋ねたらいったいなんと言うんだろう。
「……背中、見せてもらえばよかったな」
随分と昔の後悔を想いながら、記憶の中で色褪せない彼が太陽の光の下で額に汗をつたわせ少しだけ微笑んでいる。あの白いシャツで隠された背中は、きっと永遠に美しいのだ。人間の幸も不幸も喰い殺す何かが永遠にその背を守って、そして彼はどれほど苦しみの中にあったとしても、強かに生きて微笑んでいるのだろう。
いつのまにか随分と役職もあがり、何人かの女性と付き合ったがそれほど関係が深くなる前に別れ、今や恋人を作る意思もなくなっていた。若い女性から声をかけられることもあったが全て断り仕事をしていたら、久々に実家に帰った時にはまた両親に心配された。
いい人はいないのか、と。もはや怒りも反発もなく俺は薄く笑ってそれを聞き流した。結局、距離も離れ年月が経とうとも彼のことを忘れることが出来なかったのである。
我ながら何とも執念深い。きっと彼の方は俺のことなんて思い出すこともなく、組を支えるのに相応しい女性と結婚しているだろうに。俺はいつまでも子供のまま、何も変わっていない。
……それでも、ここまで引きずっているんだ。もういい加減、諦めてしまいたい。
「父さん、俺が小学生の時に仲良くしてた、彼の家って今どうなってる?」
「誰のことだ? 家?」
「ほら暴力団の、あんまり仲良くするなって言ってただろう? 覚えてない?」
「あぁ! 随分前の話だな。あの組ならもう解散したはずだぞ」
「……え?」
呆然とする俺を置き去りにして父親は記憶を引っ張り出しながら話した。
「お前が大学を卒業してすぐくらいだったか? いや、もう少し後だったか……。元々それほど大きな看板でもなかったからな。後継ぎもいないとかでどんどん縮小されて……」
「後継ぎがいない!? そんな馬鹿な!」
「色々と揉めた時期もあったみたいだし、その子もどっかへ養子にされたか、もしくは亡くなってるかも知れんな。どうしたんだ、急にそんな昔のこと」
俺は頭が真っ白になってすぐさま家を飛び出して、知り合いの暴力団関係に詳しい奴に組のことを調べて欲しいと頼んだ。
すぐに組が解散したことは間違いないと分かったが、後継ぎのことまでは分からないと言われ、無理を言って組員の何人かの連絡先を聞き出して、俺は一人ずつ電話を掛けていった。
幸いなことにそのうちの一人は俺のことを覚えていて、向こうから会って話がしたいと言ってきた。その人は、かつて彼の世話役をしていて、彼から俺のことを何度も聞いていたのだそうだ。
俺はその言葉を信じ、直接会って話すことにした。
「あなたのことは坊からよく聞いてました。親友なんだと言って、アルバムも見せてもらったことがあります」
腰の低い男で、初めて会う俺を懐かしそうな目で見ていた。
「……あなたなら、彼がどこへ行ったか知っていますか」
俺は最悪の返事が返ってくるのを恐れて拳を血が出そうなほど握りしめて聞いた。すると、男は首を横にふりながらこう言った。
「分からないんです」
俺はその返事に呆然とした。
「わ、か、らな、い?」
「えぇ。ボンは……あ、いや、カタギになったのにあんまりボンと呼ぶと怒られるんでした。ご子息は、地元の大学に合格して何だかんだ楽しそうに学校に通ってましたよ。お友達もそれなりにいて、それで院に行きたいって言い出したんで、親父さんも好きにして良いって言ったんです。別にこの御時世、無理に家業を継がせる気もないとおっしゃって。むしろやりたいことがあんなら良いことだって喜んでました。
ですがね、院をもうちょっとで卒業するってぇ時に、突然、いなくなったんです。とうぜん組のもん総出で探しましたよ。親父さんもわざわざ……あー、ケイサツの方々に頭を下げて、でも行方も分からなければ、何かの事件に巻き込まれたとかそういうのも一切ないんです。本当にまったく何も。まるで、元々いなかったみたいに本当に消えちまったんですよ。
……それで親父さんも随分、キたみたいで、もともと組は解散するつもりでしたが、それがあんな形になるとは誰も思ってませんでしたから」
男は当時のことを思い出しながら、重々しく言う。
「私は正直、お友達だったあなたなら何か知ってるんじゃないかと思ってたんです。それがまさか、あなたから教えて欲しいと電話がくるとは……。……わたしらも、どっかで元気に生きてると信じてるんですよ。そう簡単に死にそうにないツラしてましたからね」
そう言いながら、どこかで諦めているような悲しみが目の奥に宿っている。それは失った人へ向ける哀傷の念。
「……俺、探してみます。話してくれてありがとうございました」
立ち上がりながらはっきりと告げると、男は驚いていた。
「えっ!? ちょ、ちょっと、本気ですか!?」
「はい。俺は、生きていると思うので」
店を後にし、俺はふいに頭をよぎった可能性にすがって再び電話を手にする。
「もしもし、すまない、プライベートなことで……──」
唯一の可能性、それは彼の隠れ家であり俺にとっては安らぎをくれる異世界のようなあの店。ツテを頼って街にある高級店の情報を探ると、すぐにその店が娼館であることが分かった。それも普通の娼館ではなく男娼のみ僅か5人で成り立っている裏ではかなり有名な店だそうだ。そしてそこには『ペオニア』と呼ばれる人物がいる、と。間違いない。そこがかつての隠れ家だ。
俺は店の場所を聞き、夜遅くネオン街へ向かった。
まだ高校生だった頃はギラギラした看板や、雑然とした人々の賑わいに自分だけがその場所から浮いているような気がして居心地が悪かったというのに、今となっては人の波に紛れ埋没していく感覚に歳を経るとはこういうことかと思った。
彼は──? 彼もまた、この中にいても馴染んでしまうような『大人』になったのだろうか。
急ぎ足で立ち並ぶ高級店の前を通り過ぎて、住所を確認しながら看板を探す。しばらく歩くと人出も少なくなり静かな空間に、飾りすぎずけれども確かに美しい造りの店がひっそりと佇んでいた。
「……正面から入ったことは無かったな」
俺は覚悟を決め、住所を書いたメモをスーツのポケットにねじ込むと店の扉を押し開けた。
店に入ると丁寧に出迎えられ、指示に従って進むとフロントに一人の老婆が座っている。
「いらっしゃい。ペオニアなら部屋で待ってるよ」
しわがれた声で煙管を片手に。……何もかも見透かされている。やはりここは、異世界のように不可思議だ。
案内されたのは緑色の装飾を施された豪奢な扉の前だった。
「どうぞ、ペオニア様は中でお待ちです」
俺は少し震えながらその扉をあけた。
──そこには、神がいた。
あまりにも美しく、そして息も凍りそうなほど冷ややかな。亜麻色の髪をした異界の生き物。そうでなければ、俺と同じ人間であるわけがない。これほど恐ろしく完璧なものがどうしてこの世に存在するのだ。
俺は言葉を失った。指一本動かせないまま固まって……。けれど、冷笑を浮かべるそれの前でなにが出来ただろう。機嫌を損ねれば、簡単に殺されてしまうような気さえした。
「……畏怖を正しく感じるというのは、素質のある子供ですね」
優美な仕草で首を傾げ、指先を唇にそえ、それは言った。
「けれども、あなたが探し求めている者は遥かに優秀で、外の世界で生きるには不自由の多い子供です」
翡翠色の瞳は全てを見抜いていた。
「彼がどこにいるか知ってるんですね」
恐怖を感じながら、シワになるほどスーツを握りしめて俺は聞いた。
「えぇ、知っています」
「教えて下さい! お願いします。どうしても彼に、会わなければ……!」
「会ってどうすると言うんです。その後悔を埋めて? それであの哀れな龍をお前の身勝手でまた苦しめるのですか」
「……分かりません。苦しめる、かも、しれない。それでも、俺は会いたい」
「未練がましい上に傲慢で、なぜあれほど優秀な子がお前ごときに手を差し伸べたのか。まったく理解し難いものですね。……まぁいいでしょう。案内だけはしてあげます。けれどもそれにあの子が応じるかは私の知るところではありません」
「あ、ありがとうございます!」
「……ついてきなさい」
白緑色の薄布をまとったその人は静かに立ち上がる。
「あの子は今、この店の大事な働き手なのですから、無理に傷つけるようなことをすれば即刻追い出しますからね」
そう言って案内された部屋は、かつて見たあの涼しげでけれども柔らかな光に包まれた空間、そして中心にあるベッド、その天蓋の内に彼がいる。
「私は部屋に戻っています。何かあれば呼びなさい」
パタンと扉が閉まり、この部屋の中には二人だけ。──三度目の邂逅である。
「……久しぶり、だな」
薄い幕の向こうに見えるシルエットに向かって俺は話しかける。
返ってきた言葉は冷ややかだった。
「何の用だ」
その一言だけ。けれども俺はその冷たい声にも、こちらを見てすらいないようなシルエットにも構わず言った。
「ずっと、後悔していた」
彼はもしかしたらその後悔は、例えば遠くの大学へ行ってしまったことだとか、幼い頃に彼と遊ぶことを諦めてしまったことだとか、そういうものを想像したかもしれない。けれども俺の後悔というのはひどく単純で、俗物的なものだった。
「──お前の、背中を見せてくれないか……?」
シルエットが動く。振り返ったのだ、そして俺をあの薄布の向こうから見ている。
「……後悔とは、私の背中を見なかったことか? まさか、そんなことのためにわざわざ部下を使ってまで探し回っていたのか? 本当に?」
「あぁ、そうだ。とんでもなく馬鹿な男だと笑ってくれ。でも、本気でそのためにここまで来たんだ。なぁ、そっちへ行ってもいいか」
「は、ははははっ! 本当に馬鹿な奴!」
笑い飛ばした彼は、するりと天蓋の薄布に手をかけ──勢いよくそれをひるがえす。
数十年ぶりに見た彼は、あの頃と変わらず美しかった。若々しく、けれど一層大人びて……。
「いいよ、こっちへおいで」
優しい微笑みすらもあの頃のまま、その射るような黒い瞳は俺をまっすぐ見て、ベッドの中へと誘う。俺はふらふらと歩き、天蓋の内へ引き込まれた。
「私に会いたかったんだろう。どうだ、嬉しいか?」
彼は楽しそうに笑っていた。
「……あ、あたまが真っ白になりそうだ」
「そうか。私は──いや、僕は嬉しいよ。君が、こんなところまで来てくれて」
「うぅ、まってくれ、そんなに近づかないでくれ。気が変になりそうだ」
「何を今更、ここまで来ておいて。ほら、目の前に僕がいる。手を伸ばして触ってみるといい」
「む、むりだ。まってくれ、ほんとうに……」
「どうしたんだ? 僕の背中を見たいんだろう……?」
俺が狼狽えるのを面白そうに見ながら、彼は艶かしく囁いて、浴衣の襟をなぞり胸元をほんの少しのぞかせる。
「……、……だめだ。どうしよう」
すぐ側にいる彼のことを直視できずに目をおおいながら呻くしかなかった。
「この浴衣を脱がなければ背中は見れないよ? それとも、僕が自分で脱ぐところを見たいのか?」
「ち、ちがう……」
「なにが? どうしてそんなに躊躇うんだ。言ってみろよ。僕はいつだって君の話をちゃんと聞いてあげただろ?」
そう言って、彼のひんやりとした手が、俺のそれに触れ、指先をなぞる。
「やめてくれ!」
俺はその手を払い除けて言った。
「今、お前に触れたら、全部が欲しくなる!」
黒い瞳を、美しい相貌を凝視して俺は訴えた。
「……。いまさら、なにを言っているんだ」
彼は薄く笑って、それは優しさというよりも嘲笑を込めた眼差しで。
「この期に及んで僕の背を暴いただけで離れられると思っているのか⁉」
それは非難でもあった。
「あの時、共に逃げてはくれなかったくせに! いまさらこんな所まで未練がましく追いかけてきておいて、また僕を置いていくのか⁉」
「……そ、れは、だって、お前の、家族が……」
「『だって』『僕の家族が』? いつまで子供みたいな言い訳を重ねるつもりだ。いつまで、自分の感情に蓋をすれば気が済むんだ!」
彼は、泣いていた。目を真っ赤にして俺に訴えていた。
「生きがいも、目標も、願う将来も無いと君は嘆いていたが、ぜんぶ君自身が見ないようにしてきただけだろ! いまさらになって僕の前に現れたのは、本当の願いに気づいたからじゃないのか……?」
「……だって、俺は、お前のことがどうしようもなく好きだってこと以外、なにも分からない」
つられて泣いてしまった。悲しくはなかった。困惑していた。
「愛を生きがいにするのは罪か……? 好きな人と共に生きるための選択は下らないものか? 立派な職について、人のためになる行いをしなければいけないのか? ……なぜ、端から可能性を認識しない」
やりたいことなど、なにもなかったはずだ。
望む将来もなく、ただ父親に言われたとおりに生きてきた。
何かが嫌だと思った気もするが、これといって反発する理由はなかった。
長い人生の中でただ一度だけ、逆らったのは、あの幼い日。
お前と遊びたかった。
他のことは何一つ望んだことなど無かったというのに。
「なぜ、俺は……?」
気づきもしなかったのか。こんなにあからさまで分かりやすい行動をしておいて、本当になにをいまさら。彼から離れられるわけなど無かったのに。
「──お前だけが、俺の生きがいだった」
涙ながらに告白した。やっと見つけた自分の中に眠っていた真実──。
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