テレパシー 1章07話

07話 夏休み

あらすじ
高校生になり、友達と部活動見学に向かった一信《かずのぶ》。弓道部に入ろうかと考えて、人だかりが無くなっても見学を続けていると優しげな部長から声をかけられ道具を見せてもらえることに。そこで遅れてやってきた三年生の先輩 高木(たかぎ)と出会う。
物憂げな表情で無口な高木は、冷たい印象を受けるが一信は次第に彼の優しさに気づいていく。弓を引く姿の美しさに惹かれ、高木自身へも惹かれていく一信。最初は困ったようにしていた高木も少しずつ心を開くようになり、明かされていく高木の危うさ。人間の醜さ、鬱屈を想いながらも、少年たちが愛とは何なのか考えていく物語。

【夏休み】  僕が部活を辞めずに、一ヶ月と少し経った。一年も的前で弓を引くことが出来るようになり、それなりに楽しくなっていた。  けれども、やはりあの人のいない弓道場は花のない花瓶のように……花瓶だけでも美しくはあったのだけれど。  空虚に感じながら、それでも今日はいつもより時間が過ぎるのが早かった。 「先輩!」  それは、午後から高木先輩と会う約束をしていたから。 「僕、頑張って弓道続けてますよ!」 (褒めてください!)  そんな心の声を丸出しにしながら私服姿の先輩の元へかけよった。 「そうか」 「あれ、褒めてくれないんですか?」 「……褒めてほしいのか?」 「はい!」 「分かった分かった。偉いな。その調子でがんばれよ」  呆れたように優しく言う。  はて、聞こえていると思ったけど、もしかしたら距離によって必ず思考が読めるわけではないのか。それとも意識的に聞く必要でもあるのか……? いや、だとしたら、大会の時に具合が悪くなった説明がつかない。  それに、先輩は会話をする時いつも相手の口元を見ている、ということには最近気づいた。長い前髪でその視線を隠し、マスクで表情を覆い。それはこの人の鎧となる。自分と他人を守るための薄い膜。  だとすれば、聞こえなかったのではない。答えなかったのだ。  僕が、心の内を知られていることすら忘れてしまうように。 「……僕、風邪ひけませんね」  もしも口元が隠れてしまえば、この人は恐ろしくて何も言えなくなるだろう。そしてそれは、僕にとっても耐え難いことだった。 「さて先輩、今日は僕が行きたいところを決めていいという話でしたが、実はチケットを買ってきました!」 「……どこの?」 「美術館です!」  一信は満面の笑顔で二枚のチケットを出し、その一枚を高木に渡した。 「僕が勝手に買ってきたものなのでお金はいらないですからね!」 「……分かった」  案外あっさりと受け取ると、高木は書かれている文字を読んでから少し微笑んだ。といっても表情の大部分は隠れているので、あくまで僅かにのぞく目元と、その雰囲気がやわらくなったような気がする、というだけの変化だったが。 「あれ、もしかして、先輩もこの美術展知ってました?」 「あぁ、ロシアから来てるんだろ。行ってみたいと思ってたんだ」 「そうなんです! 先輩も絵好きなんですね。僕も前々からエルミタージュ美術館の絵は見たいと思ってたんですけどなんせ遠いので、こういうふうに見れる機会があるのって本当に良いですよね」 「あぁ。美術館は……好きだ」  遊びに行く了承が取れた時、一信は最初に彼のテレパシーについて考えた。人混みは辛いだろう。けれども街に出れば人は避けられない。では人の多さではなく、思考に着眼してみたらどうだ? 例えばデパートや商店街なんかでは人の思考はあらゆる方向に向く。見ている対象があまりにも広いからだ。しかし室内で展示物のある場所ならば比較的思考は分散せず、ことに美術館など静かに見ることが求められる場所では会話そのものも減る。これなら高木の負担も軽くなるかもしれない。  一信自身が美術館に興味があったというのも理由の一つではあるが、それほど熱心に鑑賞するタチかと言われればそうではなかった。  著名な画家や作品についてはある程度の知識があったが、父親の持っている画集だとか美術の時間に習ったとかいうものを律儀に覚えていたに過ぎない。いつか機会があれば見てみるのもいいかな、という程度の興味。  けれども、そんな一信も今日から趣味はなんですかと聞かれれば美術館めぐりです! と答えてしまいそうだった。  それは、隣で幸せそうに絵を眺める麗人の存在によって。 (本当に絵を見るのが好きなんだな)  静かな黒い瞳は、ゆっくりと絵を見留め、そしていくつかの絵の前をゆるやかな歩調で歩いてゆく。その姿の、なんと穏やかなことか。 (美術館を選んでよかった)  心底そう思って、ふいに先輩と目が合う。すると彼はやわらかに微笑んで、左手で絵を指さしながら右手で僕の肩を寄せる。 「あの絵──『死の天使』好みだな……あぁいう明暗のはっきりした絵って惹かれるんだよな」 「そ、うなんですか。僕は、どっちかっていうと、ピカソみたいに意味が分からないのに興味がありますけど」 「キュビズムのことを言ってるのか? まぁあれもすごいらしいが──」  表情にはそれほど出ないまま、テンションが上っているらしい高木は耳元で話し続けようとする。 「ぁ、あの、先輩、ちょっと近くないですか」 「あぁ……悪い。結構人が多いから、聞き取りづらいかと思って」  はっとしたように先輩は肩に置いていた手を離し、わずかに距離を取った。  直後、もったいないことをした、と思ってしまったのは、……どうかこのそれほど喧しくない喧騒にかき消されてくれまいか。  この時、すでに一信は自分の中に妙な浮ついた感情が見え隠れするのに気づき始めていた。けれどもそれはほとんど無意識の領域に近く、思考には昇らない。明確に名前を付けることも出来ない何か。  黙って絵を見て回りながら、先輩は少し人の空いたところで言った。 「一通り見終わったら、外でアイスでも買ってやろう」  その言葉は、空調の整備された涼しい館内には似つかわしくないように思えた。  でも、外に出ればすぐ暑くなる。そうしたらきっとアイスは美味しいだろう。  だからきっと、僕ののぼせた頭を心配したわけじゃないんだろう。  美術展で売っていたお土産、ポストカードやロシアの工芸品などを買った後、二人は外に出た。  真っ昼間は既に過ぎたが、それでも日差しはきつく乾いた地面から熱が立ち上る。 「あついな……」  片時もマスクを外さない彼は苛立たしげに言った。 「……僕は、あんまり気にしませんし、外したらどうですか?」 (聞かれて嫌なこともそれほどない。仮にそのことでこの人が表情を変えたとて、不快に思うこともない)多くは口に出さず、けれども最低限の意思を伝えるために言葉を選んで言ったが。 「いや、いい」  彼は息苦しそうな声のまま日光が反射するアスファルトを睨みつける。 (本当に、気にしないのに)  肉体の距離と精神の距離。近すぎれば頭がぐらつくほど暑いのに、ほんの少し離れただけで、どうしてこうも……。自分の思考がままならない。  僕は、帽子を深くかぶり直した。  あつい どうしようもなくあつい  日光のまばゆさに目がくらみ あまりにもくっきりとうつる自分の影に  恐怖すら覚える   そこには深い 闇がある まるで落とし穴のように──…… 「おい」  心配そうに顔を覗き込みながら声をかけられて、僕は陽炎のようにのろい精神を引き戻した。 「えっ?」 「お前は何味がいい? アイス、そこに店が出てるから、買ってきてやるよ。お前はあっちの噴水の近くで休んどけ」 「あ、はい。えっと……じゃあ僕はレモンで」 「分かった」 「ありがとうございます」  努めて元気に礼を言うと、先輩は背中を向けたまま軽く手を振った。 「……噴水の近くは、涼しいな」  僕は少し大きな声で独り言を、自分の耳によく聞こえるように言った。  石造りの噴水の、フチに座って冷気を浴びるといくぶん頭がすっきりしていくような気がした。 「ほい、レモン」  カップを渡され受け取ると、先輩は隣に座って息をつく。 「あれ、先輩はアイス食べないんですか?」 「好きな味が売り切れてたんだ」  疲れ切ったように言う人の隣で一人涼しくアイスを食べるのも申し訳ない気がした。もちろん先輩はそんなことちっとも気にしないだろうけど。 「先輩、一口どうですか」  半分冗談、半分本気でレモン味のアイスがのっかったスプーンを差し出すと、いつものように少し伏せられた目を細めて微笑んだ。 「大丈夫だよ。ゆっくり食え」 「レモン味、好きじゃないですか?」 「食ったこと無いけど、そもそもレモンがあんまり──」  言い淀んで、うつむいたので僕は反射的にカップを置いて手を差し出した。  吐くかと思ったのだ。  けれども先輩はその手を押しのけてややあってから顔を上げた。 「……! 先輩! ティ、ティッシュ僕、あります」  慌ててポシェットの中身をかきまわしてティッシュを取り出し先輩の手に渡す。 「ん……」  受け取りながらマスクを外し、鼻にそれを押し当てる。  先輩がそれほど慌てていないのを見ると、こういったことは珍しくないのだろうと思った。 「大丈夫ですか? ここだとちょっと日光がきついかもしれません。もっと日陰にいきましょう」 「あぁ」  僕は先輩の荷物も持ち、噴水から離れて木陰にあるベンチに移った。 「何か冷やすもの買ってきましょうか?」 「大丈夫だって。それよりお前、アイス溶けるぞ」 「後で飲むんで平気です。拭くものあったほうが良いですよね。僕あっちの水道でハンカチ濡らしてきます。動かないでくださいね!」  一信は過度に心配しているわけでも、焦って空回ることもなく小走りで駆けていったのを見て、高木は少し安心した。  となりで所在無さげにどろどろと溶けていく黄色いアイスが気の毒になりながら、血が止まるのを待つ。  程なくして濡れたハンカチを手にして戻ってきた彼により、木陰に更にもうひとつ影を重ねて。 「あ、ありがとう──」  ティッシュを血まみれにしながら顔をあげた。そうして、熱が飛ぶのを感じた。  一信はハンカチを握りしめたまま微動だにしていなかった。その視線は、ひたすらあかい色に注いでいる。  飽和している  白が朱を目いっぱい含んで  その液体は  彼の人の手を 唇の上を  汚す  乾いた朱が指先の陰影を浮き立たせ  美しく弓を引くあの手を グロテスクな何かへと  変貌させる 「──一信!」  鋭い声が頭に響いた時にはもう遅かった。  あつい あつい あつい──‼  熱が太ももの血管を満たし、すぐにそれは羞恥の熱と化していた。 「ぁ、ごめ、なさ……」  思わず謝ったのも聞かず、先輩は冷たいハンカチをふんだくって僕の顔をはたいた。 「かがんどけ、バカ」  それが軽蔑の声でないのはすぐに分かった。なぜなら先輩は僕の頭を乱雑に掻き撫でて、気を散らそうとしたのだ。  羞恥に燃える顔を見ないように、泣きそうなほど恥ずかしい痴態をごまかすように。  しばらく収まるのを待ってから、先輩は目を合わせないまま気にしなくて良いと言った。

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