テレパシー 2章08話

08話 家

あらすじ
高校生になり、友達と部活動見学に向かった一信《かずのぶ》。弓道部に入ろうかと考えて、人だかりが無くなっても見学を続けていると優しげな部長から声をかけられ道具を見せてもらえることに。そこで遅れてやってきた三年生の先輩 高木(たかぎ)と出会う。
物憂げな表情で無口な高木は、冷たい印象を受けるが一信は次第に彼の優しさに気づいていく。弓を引く姿の美しさに惹かれ、高木自身へも惹かれていく一信。最初は困ったようにしていた高木も少しずつ心を開くようになり、明かされていく高木の危うさ。人間の醜さ、鬱屈を想いながらも、少年たちが愛とは何なのか考えていく物語。

【家】 「俺といるのは疲れるか」  高木は敢えて遠回しな言葉を選んで聞いた。『辛い』とか『嫌い』だとか『苦痛』だなんて言えば反射的に否定しかねない。すぐに思考を隠すこいつの本心が分からない以上、せめて答えやすくしようと思ってのことだった。けれどもその配慮は功を奏したのか否か。  一信は容易く首を横に振った。 「もしかしたら思考しないようにしているのをそう思ったのかもしれませんが、むしろ頭を空にするのって、疲れないんですよ。コツを掴めば難しいことでもありませんし」  それは嘘ではないのかもしれない。けれども不自然だった。 「じゃあ、それ以外で俺に不満があるか」 「いいえ、不満なんて……」  狭いマンションの一室で、高木は机に付属した椅子に足を組んで座っていた。苛ついているのか眉間にはシワがよっている。対する一信は落ち着き払って机の対角にあるベッドに腰を降ろしている。  それ自体が、不自然だった。  歪だった。  そして、それに気づいてすらいないことが、罪だった。 「……そうか。話す気は、ないのか」  そうさせてしまったのは、俺だろう。あれほど敏く、そして思うまま自然に生きていた奴を、ここまで不自然で愚かな生き物に変えた。臆病で嘘つきな人間という生き物に。 「先輩、何を怒ってるんです。先輩こそ僕に不満がありますか? 言ってくれれば──」 「やめてくれ!」  それは悲鳴のような声だった。 「俺が怒っているように見えるのか。だとしたらそれはお前が怒っているからだ! 俺に! でも俺にはそれがどうしてか分からないんだ! どうやって聞けばそれを教えてくれるのかも……」  泣いていた  黒い髪の隙間から、透明の筋が覗く  僕が泣かせた  僕が傷つけて  僕が悲しませて  あぁ、知っていたはずなのに。この人が眉をひそめた時、険しい目で誰かを睨みつける時、そこにいつもかなしみがあることを。  知っていて、なぜ、怒っていると疑いもせず思ったのだろう。  僕が怒っているから? そんなバカな。怒ってなんか。……むしろ、僕は、僕の方こそ悲しんでいる。  あなたの愛が、信じられなくて。 「……こんな時でも、あなたは口に出したこと以外は答えてくれないんですね」  目を赤くして僕の口元を凝視するその人に向かって言ったが、意に介した様子もなく押し黙って待っている。 「先輩は、僕のことが好きですか?」  気がつけば微笑みを湛え、自らを嘲笑するように、僕は尋ねた。返ってくる答えに予想はついていたから。 「何言ってるんだ。好きでもない人間と一緒にはいない」  この人は心底、そう思って答えている。質問の意味が分からないという顔で。それこそが僕の苦しみだった。 「……先輩は、僕に欲情したことがありますか。  僕の肌を見て目をそらしたことは  キスをしたいと思ったことは  他の人と親しげに話しているのを見て焦ったことは?  ありますか。一度でも僕を恋人として特別に意識したことが」  真っ青になって、あなたはやっと理解した。  あぁ、今こそ脳ミソを空っぽにしてしまいたい。でないと僕は必死に思ってしまう。  どうか、どうか! 謝らないで!  それは終わりを意味するようで恐ろしいから! 聞きたくない!  あなたの感情が恋ではないと自覚する言葉なんて‼  けれどもあなたは呆然としたまま涙を拭うのも忘れて言った。 「傷つけたくなかった」  ──僕は耳を疑った。なぜならその言葉は、とうの昔に自覚があったと証明するものだったから。  気づかなくてすまなかったと謝られるよりはるかに残酷な告白。愕然とする僕を前にあなたは蒼白な顔で唇を震わせ、言いつのる。 「違うんだ。そんなつもりじゃなかった。確かにお前と同じようには思ってないかもしれない! でも……違う……本当に分からないんだ……」  うつろな声だった。 「俺は 恋をしたことは 一度もない」  懺悔のようなその言葉を、あなたは目を伏せたまま、何も映さない瞳で言った。僕との感情の違いに気づいていながらそれを黙っていたこと、そして今更になって露見したことで僕を傷つけた罪のために。  僕は思わず聞き返した。 「一度も?」  すると顔を上げて、やや間があってから答えた。 「あぁ。一度もない」  刹那、僕の中で何かが弾けた音がした。赤い実が、音を立てて割れ、勝ち誇ったような笑いが漏れそうになるのをなんとかこらえた。恋を知らないあなたには、この感情は分かるまい。 「……先輩、以前に僕が恋人はいるんですかと聞いたことがありましたよね」  まだお互いに友人だと思っていた頃に何気なくそんな話をした。なにせ先輩はたいそうモテていたものだから。 「あったな」  突然なにを言い出すのだろうと思いながら、後ろめたさ故に高木は素直にうなずく。 「その時、今はいない。と言いましたよね」 「あぁ」 「でも、いたことはあったんでしょう」 「あった」 「好きではなかったんですか」  その問いに再び目をふらふらと彷徨わせながら答えた。 「人として、好意は持っていた。二人とも元々親しい友人だったんだ。だから好きだと言われた時も、友人が恋人になっても構わないと思ったから付き合った」  この人にとって友人と恋人の境目は相手の行動に一任される。つまり、親しい間柄でさえあれば好きだと伝えて断られることがない。 「じゃあ、先輩から関係を終わらせたことは無いんですよね」  それならば、と一信は思う。高木から別れを切り出される心配がないのなら猶予はある。今はまだ恋でなくとも、いつか実る可能性はあり、そしてそこにどれほどの時間をかけるかは自分が決めることが出来る。期待するような気持ちで返事を待った。 「……一人目は、彼女から別れたいと言われた。俺はあまりに淡白過ぎたらしい。二人目は男の先輩だった。その時は俺から別れると言った。その人を、人としてすら愛せなくなったからだ」  仄暗い瞳に宿るのは、怒りか、悲しみか。 「なぜ、愛せなく……?」 「聞いても不快になるだけだと思うが、そもそもお前がその人のようになるとは思わない。知らなくても二の舞いにはならないから心配しなくて良い」 「確かに先輩が人としてすら嫌いになってしまうようなことをするのは難しそうですが、それでも不安だし、単純に気になります」  好奇心が頭をもたげ、今なら答えてくれるだろうと喚いている。そしてその通り、先輩はひとつため息を付くと優しい口調に戻って話しだした。  ──その頃、高木はまだ中学生で今より心も体も未熟だった。心の支えであった祖父が亡くなったばかりでことさらに荒れており、口より先に手がでるような扱いづらく繊細な子供。  大半のクラスメイトは遠巻きに見ていたが、中にはわざわざ絡んできて彼が始終マスクをつけて前髪を伸ばしていることを揶揄やゆした。見た目の割に腕っぷしが強かったもので、気の早さもあいまって不良と認識されるのに時間はかからなかった。  それからは同じく不良と呼ばれる同学年の者や、生意気な奴が居ると聞きつけた先輩に絡まれることも多かったが、それらを返り討ちにしていると更に強いやつがやってきた。痛みでやかましい思考が紛れることを覚えた少年はたいして苦しいとも思わずそれを相手にしていたが、そのうち強さを認められるようになってきて、そうすると少しずつ景色が変わっていった。  周りにいる自分と同種とされる人間たちが喧嘩をしていない時、ごく普通に過ごす時、なにを思っているのかを知った。  なぜあいつは人を殴るのか  なぜあいつは物を盗むのか  なぜあいつは教師を笑い これみよがしに煙草を吸って 規則を犯すのか  理由はあった。それは本人たちの中でも明確にはなっていないことが多かったが、知っていくうちにただ暴力的なやつだと片付けてしまうことは出来なくなった。  自分がそうであるように、相手にも心があった。  ぼんやりとして輪郭を持たず、それでいて危うい心に触れるうちに、高木は彼らに一種の慈愛をもって接するようになった。高木自身はそれを慈愛などと傲慢な名では呼ばなかったが、それでもその言葉と態度は何人かの人間を救っただろう。  強い上に愛情深い彼のことを慕う者は増え、先輩からは何だかんだ親切にしてもらえた。  あの人も、最初はそんなうちの一人。  俺よりも強く、歳も上で、不良たちから慕われている人だった。可愛い後輩の一人として気にかけてもらい、その人の懐の広さが好きだった。  変わってしまったのはいつからで、それは何のせいだったろう。  親しくなって、特別に思われているのに気づいてから程なくして好きだと言われた。俺はそれを受け入れた。内心、女と付き合って失望されるより良いかもしれないと打算的な気持ちもあった。付き合ったその日にキスをして。  次の日に体を許した  その人の好意が 本当だと知っていたがために  愛ゆえに俺を抱いたことは 嘘ではなかった  手に入れた瞬間に崩れ去っていくものであったとしても  俺はまだ分かっていなかった。なぜ祖父が「お前の両親が別れたのはお前のせいではない」と繰り返し言い、「どのみち喧嘩別れでもしていただろう」とただの慰めではなく本心から言えたのか。俺の両親が本当にそうだったかは分からないが、少なくとも人間の心など容易く変わるのだということを祖父はよく知っていたのだ。  俺は目の前で移り変わっていく心を見て初めてそれを理解した。ひと月も経つ頃にはその人の執着は薄れ、ただ性の対象としてのみ扱われた。  信じたくなくて幾度か気のせいだと思い込んで行為を重ねたが、その人が別の女にキスをしたことを知った日に俺は別れを告げた。  怒りよりも、悲しみが強かった。  ──信じることほど、愚かなことはない。

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