テレパシー 2章12話

12話 愛とは何でしたか?

あらすじ
高校生になり、友達と部活動見学に向かった一信《かずのぶ》。弓道部に入ろうかと考えて、人だかりが無くなっても見学を続けていると優しげな部長から声をかけられ道具を見せてもらえることに。そこで遅れてやってきた三年生の先輩 高木(たかぎ)と出会う。
物憂げな表情で無口な高木は、冷たい印象を受けるが一信は次第に彼の優しさに気づいていく。弓を引く姿の美しさに惹かれ、高木自身へも惹かれていく一信。最初は困ったようにしていた高木も少しずつ心を開くようになり、明かされていく高木の危うさ。人間の醜さ、鬱屈を想いながらも、少年たちが愛とは何なのか考えていく物語。

【愛とは何でしたか?】  曇り空の中、日も暮れ始めて随分と薄暗かった。何かに急かされるように、けれども決して走りはせず、ただ早く歩いた──その方がよほど疲れるだろうに。 「今日は早く帰れそうですね」  隣の席の男がそう言った。 「高木さんもたまには残業をしないで家でゆっくりと過ごしたらどうですか」  たいしてその声を認識しないまま、私はそうですねと返事をする。お前と私では仕事をする意義が違うのだと説明したところで分かるわけはない。いちいち下らない話を振られても能率が落ちるからどうかさっさと帰ってくれ。 「あ、雨が降ってきてますね……傘は持ってきましたか?」 「雨? いや。ありませんが、会社で借りれたでしょう」 「あぁ! 確かに。あれは良いですよ。いちいち買わなくて済みますし、僕はいつも忘れてしまって。向こうだと雨が降ってもすぐ止むのであまり傘をさすことって無いんですよ」 「そうですか」  どうでもいいお国事情を話されたところでどうしろと言うのだろう。  いつも大した返事はしないのに、毎日律儀に話題を提供するこいつはいったい何を考えているのか。  結局今日は、そいつに言われたからではなく、出来る仕事が全て終わってしまったので私は珍しく早めに帰ることにした。確かに雨が降っている。事務室の無料貸し出ししている傘を借りに行こう。  日付と部署、名前を記入して勝手に借りていくことが出来る。今日は午前中晴れていたこともあり、忘れた人が多かったようで残り一本だった。  ちなみにこの傘、何本かは会社で購入したものだが何本かは寄付である。つまり雨が降るたびに傘を買っていたような人間が家に貯まった傘をここに移すということで、少々劣化しているものもあったが、使えないというわけではない。最後の一本ということもありおそらく一番質が悪くこ汚いビニール傘だったが、とにかく雨が避けられてジャケットが濡れなければ何でも良い。  玄関を出てざぁざぁと視界を遮る雨と薄い暗闇の中に出る。するとふいに、街灯の下に子供を見たような気がして、一瞬身を強張らせ、再度そちらを見た。  ──子供がいる。ずぶ濡れになって、それはこちらを見ていた。  雨の音が死んでいく  青白い光に照らされた少年  身じろぎもせず 固く口を結んだまま  それはただ見ている  表情からは何も読み取れない  だというのに 濡れた髪の隙間から覗く黒い瞳は少年の心をありありと映していた  怯えている  恐れている  それでいて 強い怒りを隠し持っている  でなければあれほど鋭く射るような目は出来ないはずだった。  私はしばらく動けずにいた。それが、その雨に濡れた少年が自分のたった一人の息子であることに気づいていながら。  雨の音が耳に入るほど落ち着いてからやっと重い足を引きずって、少年を雨から守ることが出来た。  少年は僅かに驚いたように、目を見開いて私を見上げ、小さく言った。 「──……なぜ?」  その言葉はどこに向けられたものだったのか。私の、どの行動を疑問に思ったのか。  分かるわけはない。  沈黙を最大の言葉とする息子が、何を考えているのか私には一度も分かったことがないのだ。    *** 「そのままだと風邪をひく。取り敢えずこれを羽織っていなさい」  差し出されたジャケットを呆然としたまま受け取って、着る。  濡れて張り付いたシャツの上に、温かい空気が含まれる感覚。そこではじめて自分の体が冷え切っていたことを知る。  父親の持つボロいビニール傘の下に入って夜道を二人で帰っていく。  お互いに一言も発することなく。  招き入れられた父親の家。  そこは自分の家と同じくらいの狭さで、同じくらいの綺麗さが保たれている空間。  シャワーを浴びてきなさいと言われて俺はやはり頭を働かせないままそれに従った。出ると脱衣所に父親のシャツが置いてあって、もと着ていた服は洗濯機の中に放り入れられていた。ひとまわり大きいシャツと、それから一緒に置いてあったよく分からない柄のハーフパンツをはく。そうするとすぐ側にある小さなキッチンから食器のカチャカチャとぶつかる音が聞こえてきて、脱衣所を出てみると父親がホコリ被ったマグカップを引っ張り出しているところだった。 「……何してるんですか」  俺が出てきたのに気づいていないその人に後ろから声をかけると、飛び上がらんばかりにびっくりしてから冷静を装って答えた。 「飲み物を入れるカップを探してたんだ」  聞かなくてもどうせ聞こえているだろう、と、彼は考えていなかった。忘れているのだろうか? 俺が化け物であるということを。なぜ家にまで入れたのだろう。なぜ当然のように心配して、親切にするのだろう。  なぜ、あの時  傘を差し出したのだろう 「向こうに座っていなさい。今、温かいお茶を持っていくから」  マグカップを洗い、冷蔵庫から出したペットボトルのお茶を移して電子レンジに突っ込みながらそう言った。  この人はいったい、普段どんな暮らしをしているんだろう。母親はマメな人だった。飲み物ひとつとってもこだわりがあって緑茶も紅茶も茶葉からいれるような。それに加えて自分は飲まないコーヒーも楽しそうに選んで買うような、そんな人だった。  俺はそこまでこだわりは無かったが、最近は恋人の影響でレモンティーのティーバッグを購入した。これがなかなか美味しいので気に入っている。 「温めすぎた。熱いから気をつけなさい」  差し出された湯気のたつカップを受け取って、これはすぐには飲めなさそうだとシャツの裾で熱さを緩和しながら冷ますために息を吹きかけていると、父親が口を開いた。 「進路のことか」  俺はまた驚いてしまった。 「……いや、進路は、決まって、ます」 「そうか。費用がかかるなら言いなさい」 「それは大丈夫……。毎月貰う分を貯めてたから、それに、通信制なので、普通の大学より安いんです」  そこまで喋ってから、余計なことを言ったと思った。なぜ通信制を選んだか、テレパシーが影響しないことが最も重要な理由である。 「……そうか」  けれどもそれには思い至らず、頷いただけだった。そして少しの沈黙のあと、再びこの人は意外なことを尋ねてきた。 「母さんには、最近会ったか?」  俺は本当に驚きながら慌てて首を横に振った。 「そうか、私はこのあいだ会いに行ったが、その時はだいぶ落ち着いているようだった」 「そうですか」  なぜ会わないのか、と聞きはしない。分かっているから。会ってみたらどうだと提案することもない。ただ、この人は俺が母さんに会うことをもう許していたのだ。  実の母親に会うのを許していたというのはおかしいと思うかもしれないが、それ以外に言いようのない感情がそこにはあった。そしてそれはいつから許されていたのか、俺には分からない。  少なくとも、この人が俺に愛情と憎しみの両方を向けた時、俺を息子としてではなく異界から来た化け物の子供であるかのように見た時。  それは許されなかった。  そして俺自身も罪だと思っていた。 「……友達が、できました」  己の存在が罪ではないと知ったのは、彼らのおかげだった。 「何も知らないでいてくれる人と、知っても変わらずにいてくれる人がいます」 「だから俺はそれなりに幸せです」  父はその告白を黙って聞いた。  憎しみは風化し、恐怖と情が残っている。 「……恋人も出来ました」 「でも、俺はどうすれば愛に報いることが出来るのか分からなくて。それで、あなたに」  湯気のたつカップから顔を上げ、久々にはっきりと父親の顔を見て。 「父さんは、どうして母さんを愛しているのですか」  ──あまりにも静かに、丁寧に問うものだから。その質問がひどく年相応で、そして人間的であることを忘れそうになる。  何もかも見透かすような黒い瞳を恐ろしく感じるようになったのは、いつからだったか。今よりもずっと小さかったこの子供が全ての元凶だと信じて憎んだのは……。  ごく当然のように苦しんで、愛について悩んで、不安になって、そんな普通の子供を。けれどあの時離れることを選んだのは間違いではなかったと信じている。一緒にいればもっとこの子を傷つけた。  なぜなら、この子は、傷つくことを知っていて、痛みを感じる心があって、血の通った一人の人間なのだから。 回答者 高木蘭丸の父 「なぜ愛するのかと聞いたね。……私も、愛する理由は分からない。どこを愛しているのかも。でも、側にいたいと思ったんだ。その気持ちは今も変わらない。だからそれが結果として、愛しているように見えるというだけのことだ」 「……そばにいたいって、じゃあ、なんでそう思うんです」 「愛しているからだろう」  いたって真面目に答えた。 「堂々巡りだ! 結局なにも分からないじゃないですか……!」 「そうかもしれない。さっき、報いたいと言ったね。私もお前の母さんから沢山のものを貰って、どうにかそれに見合うだけのものを返そうとした。形のある物には形のあるものを返した。そうしたら母さんは、申し訳無さそうに笑って、ただ受け取ることも立派なお返しになるんです、と言っていた。愛情というのも似たようなものだと思うよ。報いることは義務じゃない。必ず受け取らなくてはいけないものでもない。ただ私は、側にいることで母さんに返しているんだ。お前がそうしなさいということではないよ。お前の恋人がくれる愛情を返せなくて辛いのなら、それを理由に別れることだって不思議ではない」 「それは……!」 「愛されることでお前が苦しくなるのなら、それはもう愛とは呼べないだろう。一つの結果に固執して身動きが取れなくなってはいけない」 「別れたいわけでは、ないんです……!」 「なぜ?」 「なぜって……だって、人として、大切に思ってるんです……」 「それなら充分に愛しているじゃないか」 「でも彼のくれるものとは質が違う!」 「……相手は、男の子なのかい?」 「あっ、……そ、そうです」 「そうか。それなら、女性の持つ愛情と男性の持つ愛情は少しずつ違うかもしれない。でも、私は時間が経てばそれも同じになると思っているけれど、仮に違うものであり続けたとしてそれは重要では無いと思わないか。よく考えてごらん。恋人と友達の違いはその先の時間をどう過ごすかだ。お前がその彼と、この先どうなりたいのか色んな可能性の未来を考えてみて、その関係に何の名前をつけるのか決めたら良い」 「……この先」 「同性だろうが、異性だろうが、将来の可能性は複雑に広がっている。案外それを話してみることで何か気づけるかもしれない」  私は、特殊な能力を持った子供が──いや、それどころか病気や障害をもった子供が産まれてくる可能性すら、それほど真剣に考えてはいなかった。あらゆる覚悟が足りていなかった。  そのせいで、というのは短絡的かもしれないが、しかし少なからずそういった思考の欠如によって幼い息子を傷つけた。仮に考えていれば傷つけることがなかったなどと、言えるわけではないが……。 「今日はもう遅い。うちに泊まっていって、明日の朝にはお前のシャツも乾いているだろうからそれを着て帰りなさい」 「はい……あの、ごめんなさい。急に来たりなんかして」  謝ると、父親は悲しそうに笑って、気にしなくて良いと言った。  実の息子がずぶ濡れになってまで会いに来て、そうしてそれを心底申し訳無さそうに謝られた時、父の複雑さはいかばかりのものか。  父と子の関係は遠く離れていて、『父さん』と呼ばれたことに驚いたほど私は父親として何かしたことなど無かった。月に一度の事務的なメール以外をせず、この子にとっては拒絶された過去だけが私への唯一の認識だということを、その謝罪で克明に感じた。  ──この父親は知らない。毎月、高校生の生活費としては随分と多額の金銭を振り込んでいることや、メールの末尾に必ずついている健康に気をつけなさいという一言、そして空メールを返信するよう言い置くことで息子の安否確認をしていること。それらを少なからず父親の愛情であると息子が認識していることを。傘を差し出しただけで『なぜ』と言ってしまうほど拒絶されることを恐れながら、ジャケットを貸してくれた優しさに泣きそうになるほど安心したことを。  愛情という曖昧なものを、読み取る術を身に着けていることを。  父親は知らない。  翌朝、乾いたシャツを着て父親の家を一緒に出た。 「じゃあ、私は会社に行くが、何かあったら先にメールをしなさい。そしたらもう少しましな用意をしておくから」  どうやらペッドボトルのお茶を温めて出したのを気にしているらしかった。 「それから、そのうち母さんにも会いに行きなさい。それで何かあっても私はお前を責めることはない」 「……はい。……近いうちに」    ***  週末、俺は病院へ向かった。人気ひとけが少なく静かな院内はもうずいぶん見慣れたものになっていて、いつもなら先生に母の様子を聞いて、自分の近況も少し話して帰る。病室に近寄ることすら、しなかった。先生たちはそれを咎めることはない。  母の主治医は両親以外に俺のテレパシーを知る数少ない人物のうちの一人だった。なぜ母がうわ言のように息子へ謝り、神に祈り、また罵るのかを知るためにはそれを説明しないわけにはいかなかったから。  母親は息子を心から大切に思い、深く愛したがゆえに、その子が授かった異常性を嘆いた。そうしてどこまでも己を責め、その子にこれから襲うであろう試練を想像し、祈ることしか出来なかった。  あらゆる悪意がまっすぐに この幼子に突き刺さるだろう  時には好奇の目で 時には憎悪の目で  夫さえもが! この子を恐れている!  どうすればこの子を守れるのか  どうすればこの子が産まれてきたことを後悔しないですむのか  どうすれば‼  自分が今まさに我が子を傷つけている!  もっとこの子を理解してあげなければ!  もっとこの子を苦しみから助けなければ!  どうか! 神よ‼  全ての苦しみはこの子ではなく私にお与えください  そうして母は己を罰した。それは他人からすれば間違いなく自傷行為であったが、母からすれば息子に与えられた苦しみを変わりに背負うための行為であり、神への祈りの儀式のようなものだった。自分で自分を傷つけているのではない。神の与える痛みを我が身に移し替えているのだ。  俺は、恐ろしかった。  破綻してゆく母の思考は理解できず、何か言葉にならない言葉を叫びながら暴れる母を押さえつけて俺を憎んだ父の、そのごく自然な思考に安堵を覚えるほど、恐ろしかった。理解できないということにどれほどの恐怖があるのかを知った。  そして同じ理由で母も恐れたのだ。母には俺が何を見て、何を聞くのか知ることは出来ない。だからその苦しみを想像して恐れるしかなかった。  実際は、俺のほうがずっと早くその恐怖に慣れてしまい、今はまるで常人のように暮らしていることを、すでに母は理解できないのだろう。  奇跡の子よりも、その母のほうが背負った十字架は重かったのだ。  母への見舞いは、俺のカウンセリングも兼ねている。けれど、俺は荒れて喧嘩をしていたことはあるが、自覚なく人を殴ることも、己を殴ることもなかった。 『母さん。俺はもう、愛を知っています』  どうか自分を責めないで  あなたの想像するよりずっと幸せを知っているんです  あなたが嘆き狂って憎んだ 俺の背負うべき苦しみは──  それほど俺を傷つけませんでした  俺は 普通なんです  人より少し 耳が良いだけで 「蘭丸くんはここのところ落ち着いてきたね。前に言っていたお友達、一信くんといったかな。その子とはうまくいっている?」  丁寧な調子で話す先生の思考は、いつも理性的で俺の頭も静かになっていく。 「はい。喧嘩もしたけれど、ちゃんと話せています。ただ少し悩んでいることがあって。……そのことで最近、父と会いました」 「お父さんと」  僅かに驚いて、繰り返した。 「はい。実はその、恋人が、出来まして、あ、俺にです。俺に恋人が出来たんですけど、俺がその人を好きなのと、その人が俺を好きなのが違うもののような気がして、少し……」 「その恋人は、君のことを愛してくれている?」 「はい。とても。俺がその人と同じ愛を返せていないことを知っても、一緒にいたいと思ってくれる人で──」  その時、先生の頭の中には『愛』ではなく『執着』がよぎった。 「──俺は、その人を傷つけないために、嘘をついたんです。自分から離れていってしまうのが怖くて、自分にも、その人にも嘘をつきました。本当は分からないのに分かるふりをしたんです。恋をしているふりをした。でも、今はそれで良かったと思っています。おかげで今もその人と恋人でいられて、近くにいる権利がある」 「……蘭丸くんの好きと、その子の好きが違うと言ったけれど、どういうふうに違うと思うんだい?」 「俺のは、友達を大事にするのと変わらないんです。でもその人は俺に性的な欲求だって向けていて、恋人として見ている。……俺は、自分がアセクシャルじゃないかと思っているんです」 「なるほど。蘭丸くんはその子と同じような感情はもたないんだね。でもね、先生が思うにアセクシャルであることと恋人がいること、つまり友達とは違って特別に思う人がいることは矛盾しないと思うんだ。友達だってひとくくりにまとめてはいるけれど、色んな関わり方があるでしょう? 感情も大切だけど、その人との付き合い方や、どんな時間を過ごしたいかというのも一つの尺度ではないかな」 「……」 「よく分からない?」 「いえ、その……父にも少し似たことを言われて。愛情の形は様々だから、恋人と友人の違いはそこではなく、その先、どう過ごすかだと……。でも、それは最もだと思うんです。でも……、俺には少し遠い話のように感じるというか。先のことは分からないし、なにより相手だって変わるかもしれない。俺はそれより今の自分が少しでも恋人の感情を理解して近づきたいんです」  高木の言は矛盾していた。というより、普段の彼らしくなかったと言うべきだろうか。どこかまとまりのない話、そして狭まった視野。相談した人から受けた様々な答えが彼の中でまったく整理されないまま──本人はその自覚もなく──ここまで来てしまっている。  彼は何か答えが欲しいのか?  何を知りたいのか自分でも分からないまま相手の答えを受け入れられずにいる。  本当は欲しい答えが決まっているのに、誰かがそれを口にしてくれるのを待っている。  未だ治らぬ彼の悪癖だった。  今回は自覚がないのでたちが悪い。けれども目の前の『先生』は早々にそれに気づき、読まれてしまわぬよう細心の注意をはらった。 「未来の話が想像しづらいなら、過去を振り返ってみるのも良いかもしれないね」 「過去ですか?」 「そう。蘭丸くんは心の動きに敏感だからついそちらに意識がいってしまうかもしれない。でもね、精神科医なんてやっていると心の動きをている人だと思われることがあるけれど、実は体の動きが、その人の心を反映していることって多いんだ。蘭丸くんも自分の行動を一度振り返ってみると良いかもしれないね」 「行動……分かりました。考えてみます」 「うんうん」  先生はにこやかに頷いてから、話題を変える。 「そうだ、今日はもう帰るのかい? それとも、お母さんに会ってみる?」  いつもはしない提案だった。だから一瞬、自分の心が読まれたのかと思った。 「あ……」  会ってみようかと思って、けれどもいざ会えると思うと臆病な心が顔をのぞかせる。 「……俺を見たら、また、おかしくなるかも……」 「否定はできないよ。でも、お母さんの心も、蘭丸くんの心も同じくらい大切なんだ。無理強いはしないけれど、蘭丸くんが会いたいと思うなら私たちはそれをできる限りサポートするよ。そのためにいるんだ。蘭丸くんはどうしたい?」 「……、……会ってみたい、です」 「分かった。じゃあ少し待っていてね。お母さんにそのことを伝えて様子を見てから、大丈夫そうなら呼ぶからね」  そう言って先生が部屋を出てから数分が過ぎる。  窓の外 永遠に続くかと思われるほどに代わり映えのない野原が広がっている  郊外にある静かな 隔離された空間  ごく普通の病院のように花を持って見舞うこともない場所  何があの人を傷つけるか分からないから  色鮮やかで香りのある物 凶器足り得る物 それらは存在しない   白く清潔で安全な空間  母は どれほどの時間をここで過ごし  そしてこれから過ごすのだろう  なぜ母は それほどまでに苦しまなければならないのか  なぜ俺は これほどまでに苦しみから逃れられているのか 「蘭丸くん、おいで。部屋に案内するよ」 「……はい」  どこにあるのかも分からない心とやらがぎりぎりと締め上げられるような感覚に、心臓が潰れるような気さえする。 「少しずつお母さんと蘭丸くんの話をするようにしているからね、そんなにびっくりはしないと思うよ。もしも会ってみて様子に変化があっても私がずっと隣にいるから、蘭丸くんがしんどいと思ったら何も言わずに部屋を出ていっても大丈夫だよ」 「はい。ありがとうございます」  テレパシーをもった息子とその母親なんて症例は世界中を探しても見つからないだろうに、よくこの先生は穏やかに治療にあたれるものだと思った。  白い扉が近づいてくる。  気配がある──。  すぐそこを開ければ、母が──! 「じゃあ開けるね。高木さん、入りますよ」  先生がそう言って。  開かれた扉から、母は確かに俺を見た。  そうして──。 『──────────』  その思考は、俺を救い、そして殺した。  俺の顔を見た母は、恐れること無く微笑んで思った、いや、言ったのかもしれない。分からなかった。  ともかくとして、母は俺を、理解しなかった。  最後に会ったのはもう随分前だ、背丈も違う髪型も雰囲気も変わった。分からなくても仕方ないだろう。ましてや、今の母に先生が直前に言った言葉とその後の行動を繋げるほどの力は残されていないのだ。  俺は笑ってその人に言った。 「はじめまして。高木さん」  その人は笑って返す。 「えぇ。はじめまして」 「俺はあなたの息子さんの、友達です」  その自己紹介を、母は信じ、喜んだ。 回答者 友人の母 「息子に優しそうなお友達が出来て嬉しいわ。恋について悩んでいるのね?  私も昔は色々な恋をしたわ。楽しかったり、でも時々不安になったり、自分から告白したこともあったわ! とっても緊張して、でも幸せなの。  そう、幸せなの。あの子はそれを知ってるかしら。  ねぇ、私の息子は恋が出来るかしら。  あの子はね 優しいのよとっても。だからいつも苦しそうに、笑うのよ  優しいから自分が傷ついても、笑うのよ。そのことを分かってくれる恋人が出来るかしら。  お友達じゃ、ダメなのよ。  お友達は、別だもの  恋人はね、そばにいてくれる。一生を寄り添ってくれるような、そんな人がきっとあの子には必要なのに。  あの子にあいが分かるかしら。誰かが愛をあたえてくれるかしら。  私があげられなかった愛を、だれが与えてやれるというの。  ねぇ。ねぇ、母であるわたしが──」  焼ききれそうな思考に向かって俺は固く目を閉じ、必死になって思考と言葉の両方で叫んだ。 『「愛情を‼」』  その人は目をぱっちりと開けて驚いている。 「……──愛情を、知っていたから笑ったんですよ。あなたの息子は、愛することも、愛されることも知っています。それだけは間違いなく」 「……そう。そうなのね。じゃああの子はもうひとりで苦しまなくていいのね。ねぇじゃあ、あなた、私の息子に伝えてほしいの。『どうか愛することを恐れないで。生きるために必要なことだから』と」 「はい、分かっています。母さん、彼は愛が幸福で恐ろしいものだと、知っています」 「えぇそう。それなら良いのよ。お願いね。きっと伝えて。そしたら、あなたの好きなグラタンを作ってあげましょうね。早くここから帰らないと」  思考の糸が絡まり始めるのを見て、俺は先生に会釈だけしてその場から去った。  自分の思考もほどけ始めているのを感じて俺は顔色をなくす。胃の中のものが出てこないように口を抑えて。  幸福な思い出が無いわけではない。それすら忘れてしまうほど憎めたらいっそ楽だったろうか。  俺は父から、母から、確かにもらった愛情と幸せに過ごした時間によって心を作った。様々な生き方を教えてくれて、揺るぎない愛情と信頼をくれたのは祖父だったけれど、幼い心を作ったのは両親だった。  俺は愛を恐れているのだろうか。  きっとそうなのだろう。俺にとってそれは母を壊した元凶で、父が俺を恨むエネルギーでもあった。  ──生きていくために、必要なもの。

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