1~4
あらすじ
殺し屋の男が疲れ切った顔をした女に助けられる。男は自分が殺し屋であることを知られてしまった以上、何かしらの対処をしなければならないが、出来ないまま助けてくれた女の家を去る。しかし、再び仕事で怪我をしたところ女に出くわしまた助けられてしまう。
お人好しと言うには愛想の無さすぎる女が何を考えているのか分からず、けれども助けられた以上、恩を感じてしまう男はある日、女が拐われるところを見てしまい……。
『どうぞ、私を殺して』
【1】
帰り道、あたりはもう真っ暗でけれども街灯の明かりがあるから、いつも通り近道をして公園の中にある階段を下りていたとき彼女の視界に人影が入った。
ふたつ。そのふたつは距離があって知り合い同士という感じではなかったけれど、一方はまるで後をつけるように歩いている人を追っていた。追われている方は気づいていない……?
なんだろう、と思ったとき追われていた方が気づいて後ろを振り返った。
驚いた様子、一瞬の会話、あぁ知り合いだったのかと思った次の瞬間、追っていた方、が、見慣れない奇妙な動きをして、彼女は思わず息を呑んだ。
振り返ったほう、が、倒れたからだ。パンッと乾いた音が一瞬遅れて耳に響く、映画のように逃げていく男と倒れて動かない男。
彼女は目の前で起きたことが理解できず階段の手摺に縋りつきながら、やっと立ち上がると倒れている男のところへ駆け寄った。
【2】
「うっ……」
起き上がると、まず横腹が痛んだ。
「無理に動かないほうがよろしいですよ」
部屋の隅で洗濯物を畳んでいたらしい女が顔を上げた。長い黒髪に疲れ切った表情をした陰気な女。
「……あんたが助けてくれたのか」
「えぇ。救急車を呼ぼうかと思ったのですが、応急処置の時に、どうやら呼ばれては困りそうな物をお持ちのようでしたから」
なるほど。それでわざわざ自分の家に運び入れてくれたわけだ。たしかに、呼ばれちゃまずい身の上なのは間違いない。なにせ銃刀法にはしっかりと違反しているしそれだけではなく、身元なんかも大体調べられるとまずいものしか出てこない。表の医者にはまずかかれない立場だ。
「ありがとな」
ひとまず礼を言うと、そっけない返事が返ってくる。
「いえ……仕事柄、ほっておくわけにもいかなかっただけなので」
「……人命救助のお仕事を?」
助けた割には、こちらを見ることもしない女の様子に少しうがった言い方になる。
「一応、病院で働いております」
淡々と、家事を続けながら女は言った。
冷めた看護婦もいたものだ。しかしどおりで銃傷を見て冷静に手当なんてできるはずだ。心なしか包帯の巻き方もキレイな気がする。俺とは正反対の職業人ってわけ。
俺は知らずため息をつきながらなんとか立ち上がる。
「……起き上がって大丈夫ですか。痛むでしょう」
「あぁ。ま、痛いのには慣れてるからな」
なんとかベッド脇に畳んであった自分の上着を着込む。
「お帰りになりますか」
「あぁ」
「では、玄関へ案内いたします」
言って、立ち上がるために膝の上にあった洗濯物を横に置いた女に、ひやりと冷たい銃口が向けられた。女は一瞬またたきをして、けれどもそれ以上の驚きはなく男を見上げる。
「救急車を呼ばないほうが良いとは考えたけど、自分がこういう目に遭うってことは考えなかったのか?」
「……いいえ。考えました」
明らかに一般の職業の人ではない人を助けて、それを仇で返されることも、口封じのために殺される危険があることも理解した上で女は男を助けた。
「そうか。じゃあ随分と大変な自己犠牲だな。それとも看護婦なんてやってるやつはそれが普通なのか?」
「そういうわけでは無いと思いますが……。まぁ、殺されるのもまた一興と思いまして」
濃いクマが目立つ女は少し微笑んだ。疲れたように。そうして言った。
「もう、いいかと思って。……毎日、働いて、喜ばれたことより、失敗したことのほうがずっと覚えています。感謝されることなんてほとんどなくて、同僚には嫌味を言われて、どうでもいい嫌がらせの一言がずっと気になって。でも生きるのをやめることも出来なくて、一所懸命、他人が生きるのを手助けしながら毎日思っているんです。死にたいなって」
女は本当に疲れていた。
「たいして他人から求められてもいない私が、平凡な毎日を死なないだけの私が、ある日突然、自分の部屋で撃たれて死んでいたら、少し面白いと思いませんか」
そう言って、それは目を伏せた。どうせなら額の真ん中を撃ち抜かれるのが一番それらしくて良いと思ったのだろう。
「どうぞ」
けれども、次に目を開けたとき女の前から銃口は無くなっていた。
「お帰りになるんですか」
もはや後ろ姿になった、くすんだ緑色のジャケットを見ながら尋ねる。
返事は帰ってこない。かわりにバンッと乱暴にドアを閉める音がした。
【3】
怪しい男を助けたのが先月、あっという間に一ヶ月が過ぎた。
「5月とはいえ、まだ寒いですね」
女は路地裏の暗闇に立って買い物帰りのネギをバッグから飛び出させて尋ねる。
「ゴミ袋の上で眠るには早い時期だと思いますけれど」
「好きで寝てるんじゃねぇ」
不服そうな声で返事がある。
「自分で歩いてくださいね。あなた、重いので」
よろよろと起き上がった男に肩をかしてやる。やはり重かった。前回のように出血はしていなかったが、そのかわり顔は挫傷していたし、どうやら左足を怪我しているようで、跛行状態だった。
「怪我するのが趣味なんでしょうか」
「嫌味なやつ!」
【4】
「あんたこそ、いつもこんな事してんのか」
この間と同じ、くすんだ緑色のジャケットが女の白く柔らかい清潔なベッドの上に沈む。
その怪我人は斜めに寝転んで、もう起き上がる気力はなさそうだった。
「こんなことって?」
少し大きな救急セットらしきものを取ってきた女は無表情のまま男の側にひざまずいて左足に触れた。
「イッッ!」
「折れてはいませんね。腫れていますからヒビくらいは入っているかも知れません」
「……そうかい」
普段、組織の後輩やなんかにこんなふうに触られたら思わずキレたくなるのに、この女はあまりにも静かに言うものだからこっちまで調子が狂ってくる。
いや、そんなことはどうだって良い。
「おい、だからいつもこんなことをしてるのか?」
「服、切っても良いですか?」
「良くねぇよ! そこまで本格的な治療してくんなくてもいんだよ。ちょっと休ませてくれれば十分だから」
まるで人の話を聞いていない。怪我の治療しか頭に無いんだろうかこの女は。
「では応急処置だけしておきますね。お顔の方も」
服の上から包帯をしっかりと巻き付けられた後、顔を真っ白いタオルで拭かれて丁寧に傷口を消毒される。
「こんなもんほっといても治るだろ」
「手当をしたほうが、放っておくより早く綺麗に治るものですよ」
「そうかねぇ」
また嫌味な調子で言ってしまった。どうにもこの薄幸な顔をした無防備な女を見ているといらついてくる。
「ほら、これで良い」
手当が終わった女は救急セットをしまいに部屋から消える。
きれいな部屋だ。白と淡い緑を基調にした落ち着いた家具に、広くも狭くもない一人暮らしの女の部屋。整えられていて、俺の数週間捨ててないゴミ袋がほったらかしてある部屋とはずいぶん違う。それになんだかいい匂いもする。ゴミがないとこんな匂いがするものなのか。
「痛み止め、市販のだけどないよりましでしょう。飲みますよね。水を取ってきますけど他になにか、胃に入れますか。大したものは無いけれど」
「……ちょっとこっちに来てくれないか」
女はどうしたのだろうというように、何も持たないまま俺の方まで歩いてくる。
「もうちょっと」
言いながら、俺の言葉を聞こうとかがむ女の肩に手を伸ばす。そのまま、一瞬、引っ張れば簡単にそれは俺の下に組み伏せられた。
「なにがしたいんですか?」
ベッドに押し倒されても平然と、女はクマのひどい目で見上げてくる。
「なに、いつもこんなふうに得体の知れない男を助けて回ってるのかと思ってな。流石に警戒心がなさすぎじゃないのか?」
俺がけが人とはいえど、こんなに簡単に抑えつけられるくらいには、ひ弱な女だ。危機感が無いのか、それとも自分が女という自覚が無いのか。
「以前も似たようなことを申し上げた気がしますが」
女は一言前置きをすると、呆れたように告げた。
「どうぞ」
短く。疲れ切ったように。
「警戒心が無いのではなく、警戒するつもりが無いのですよ。あなたの気が変わって私を殺すつもりになろうが、レイプしたいと思おうが、大した違いはありませんので」
男はあっけに取られて思わず女の上からどいた。
「気はすみましたか? では、痛み止めを持ってきますから」
女は肩から少しずれたカーディガンを直しながら立ち上がって、何事もなかったかのように俺から背を向ける。
けれども、部屋を出ていく時、ふいに振り返って思い出したように言った。
「あぁ、そうそう。私は別に誰でも部屋に入れているわけではありませんし、不特定多数の男性と関係を持っているわけでもありませんから。……もう、そういうのは疲れてしまったもので」
もう疲れてしまったということは。かつてはこの陰気な女も、恋に溺れていたことがあったのだろうか。そういうことから縁遠くなるには、まだずいぶん若いような気もするが。しかし、名も知らない女の人生を邪推するより先に、左足の痛みが本格的になってきたことが目下の問題であろう。
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