【12】~【16】
あらすじ
殺し屋の男が疲れ切った顔をした女に助けられる。男は自分が殺し屋であることを知られてしまった以上、何かしらの対処をしなければならないが、出来ないまま助けてくれた女の家を去る。しかし、再び仕事で怪我をしたところ女に出くわしまた助けられてしまう。
お人好しと言うには愛想の無さすぎる女が何を考えているのか分からず、けれども助けられた以上、恩を感じてしまう男はある日、女が拐われるところを見てしまい……。
【12】
怪しい組織の力を借りて開業医になってからはや一ヶ月。以前より早い時間に帰れることが増えたが、今日は少し大き目の手術が救急で入ったため遅くなった。
今から帰って食事を作るのも面倒なので珍しく外食をすることにしたのだけれど、結局落ち着かなくて急いで食べて出てきてしまった……。
女はふらふらと駅から少し離れた飲食店街を歩く。
この時間になると、すでに何軒かはしごした後らしい集団もチラホラと見かける。サラリーマンらしき人たち、年齢層がバラバラだけど仲が良さそうな人たち、若者ばかりの人たちもいる。みんな生きて、生活していて、それが同じように顔を赤くして千鳥足になっているのだと思うとなんだか面白い、と思った。
「おねーさん、おねーさん、一人?」
突然、スーツ姿の酔っぱらいに歩くのを遮られる。
「おねーさん美人だねぇー! 一緒に飲もうよぉ」
なんとも典型的なナンパだが、酩酊状態であればこういった行動も致し方ないのだろう。
「邪魔です」
一言の元に酔っ払いを避けて進もうとするが、一緒にいた飲み仲間らしき二、三人のこれまた酔っ払いが道を遮る。
「そんな冷たいこと言わないでぇ。こいつ最近振られたばっかりなんですよぉ」
それは可哀想だけれど、私は家に帰りたい……と思ったとき、ふいにそれは割り込んできた。
くすんだ緑色のジャケット
「あんたら、悪いがこいつは諦めてくれ」
その一言で、目をパチクリさせて彼らは逃げるように消えていった。
「さすが、凄んだ迫力が違いますね。本職の人は」
少し楽しそうに、おかしそうに言われる。
「別に。それよりこれ、渡すの忘れてたんで」
そう言って男がポケットからガサガサと出したのはクシャクシャになった万札たち。何枚あるのかはよく分からなかった。
女が心当たりが無いというように首をかしげると、男はもどかしそうに付け足した。
「治療代……。払ってなかったんで、一応、足りるか分かんないすけど」
「あぁ、そんな、私が勝手にしたことですからいりませんよ」
断ると、男は無理やり女のカバンにそれを押し込んでくる。
「ちょ、ちょっと、わかりました、受け取ります、受け取りますから」
ぐいぐいとねじ込まれて少し動揺しながら女は金を受け取り、出来るだけシワを伸ばしてから丁寧に財布の中にしまった。
「てっきり、帰りが遅くなったから心配で後をつけてくれているのかと思っていたのですが、これを渡すために追いかけて来てくれたんですね」
財布をカバンにしまいながら心なしか残念そうに言うと、男は口をへの字にして居心地が悪そうにそわそわする。
「……別に、あんたがいつ死んでもいいのは知ってますけど、俺としては、今の仕事がなくなると迷惑っつーか。あんた、危機感ないし」
「あぁ、じゃあやっぱり心配してくれたんですね。ありがとうございます」
珍しく、笑って、女が言うので、俺は思わず目を細めた。
結局そのまま女の家まで送ることになって。せっかくなら後をつけるのではなくて隣にいたら良いという提案にも従うことになった。
二人で並んで歩きながら、ぽつぽつと他愛のない会話をする。一つの話題が終わると、また少ししてから女が新しい話題を出す。そうやって途切れ途切れの会話が続いていく。
「──あんた、食べるの早いですよね」
「そんなことないですよ。どちらかと言えば遅いほうだと思います。学生時代も大抵食べ終わるのは最後でしたし……」
「でもさっき店に入った時、すぐ出てきたじゃないですか」
「あぁ、それは、外で食べるのあまり好きじゃないんです。人が多くて落ち着かないというか。周りの音とか光が多くて気になってしまって。美味しそうなお店だから入ってみたんですけれどね。あまり味わえませんでした」
「繊細なんすね」
「そういうわけでは……。まぁ、確かに人より過敏かもしれませんが……。その分、鈍感なところもありますから」
「あー、なるほど?」
確かに感情面で言えばかなり鈍感なようにも見える。表情に出すのが苦手なのか、本当に感じていないのかは、俺には分からない。
「あ、家、見えてきましたね」
角を曲がるとちらほらと明かりの付いているマンションがある。
「じゃあ、俺はこれで」
そう言って立ち止まると、女は数歩行き過ぎてから振り返った。
「部屋まで送ってくれないんですか?」
街灯の逆光で、表情は見えない。
俺は声を上ずらせながら返事をした。
「あっ、え、送り、ます」
その返事に満足したらしく、そのまま少し前を歩く。
分からない。この人がなにを考えているのかやっぱり分からない。反対に俺のことは随分と見透かされている気がする。勘違いだろうか。
数百メートル、時間で言うなら二、三分の短い距離を歩いて、マンションの目の前について。それでも女は振り返らない。
マンションはオートロック式だ。自動ドアを開けて、階段を登って。
「じゃあ、これで」
部屋の扉の前で、俺はもう一度言った。
けれど彼女はちら、とこちらを見上げると、鍵を開けて言った。
「どうぞ」
【13】
「おはようございます」
気だるげに目をこする女が隣で目を覚ます。
いったい何でこんなことになっているんだっけ。いや、別に何一つ昨夜の出来事を忘れたわけではないのだ。
あの後、女に誘われるまま部屋の中に入って出された茶を飲み、そして、あの吸い込まれるような黒い目にジッと見つめられて。それで、俺からこの人に手を出した。
触れるようなキスをひとつ。
俺の指先は震えてた。でもあの人は静かに目を閉じただけ。
「強姦する趣味は無いんだが……」
何も言わない彼女の意図が分からなくて俺はそんなことを言った。俺だけの意思でも、この人を抱くことは出来て、そしてこの人は特に抵抗する気もないのだ。でも、俺はそんなことがしたいわけではなかった。でも、そんなこと、で無いのなら、望んでいた。
彼女は答える。
「私も、意味もなく男を部屋に入れる趣味は無いんですよ」
薄く笑っていた。少し楽しそうだった。からかっているのかもしれなかった。
「……先生に、そういう形で思ってもらえるような男じゃない」
一度は殺そうとした。助けてもらったのに。二回も、助けられた。それでも見捨てようとした。
俺がこの人に惹かれる理由は簡単だったが、この人が俺を好きになる理由はどこにも無いはずだった。頭の良い先生はそんな俺の意図をすぐに汲み取ったらしく、否定はしなかった。
「出会いは最悪かもしれませんね」
遠くを見ながら彼女は言う。
「でも、あなたを恨むことが出来なかった。私を殺そうとして、きっと本当に殺すつもりだったのでしょうけれど、それをためらったあなたの目が忘れられないのです。あなたを、優しい人だと言うつもりはありません。善人だとも。けれど、人を殺して生きているあなたという人を、気づいたら私は、ずいぶんと心の拠り所にしていたのです」
静かに、淡々と告げられた心の内に動揺しながら、うまく言葉を返すことも出来なかったが、嬉しかった。
そうして、俺はやっと許された気がして安心しながら彼女を抱きしめた。初めてちゃんと名前を呼んで、昼間は見られない彼女の表情に心臓がうるさくなった。
俺みたいな人間が、こんなに幸せで良いのだろうかと思いながら、それでも、俺を思ってくれる彼女を不幸にするわけにはいかない。
ただでさえ、こんな世界に巻き込んでしまったのだから。
俺は彼女を必ず守ろうと誓った。
かわりに自分が死ぬことになってもかまわないと、心から思って。
【14】
「かすみ~。今日はちょっと遅くなるかも。久々に上司に飲みに誘われてさ」
彼女の名前を呼ぶ間柄になってから、半年が過ぎて俺たちは一緒に暮らしていた。病院は順調に続いていて、最近は口コミで患者が増えてきたので少し忙しくなってきたが、二人でなんとか回せている。
俺はもっと彼女を手伝える仕事を増やそうと、時間のある時は看護の勉強をしている。いずれは大学に行って看護師資格を取ることも考え始めた。幸いこの仕事だと金はある。勉強は簡単ではないが、家でも職場でも分からなければ教えてくれる優秀な先生がいるので案外苦しくない。
「帰れそうな時間分かったら連絡するから」
「うん。ゆっくりしてきて。面と向かってお話するのは珍しいんでしょう?」
緑茶を温めるためのお湯を沸かしながら彼女は穏やかに微笑む。目のクマはだいぶ薄くなった。
「じゃあ、いってくる」
玄関で靴を履いていると、彼女は火を止めてパタパタと上着をもってやってくる。
「忘れてる。もう11月なんだから、ちゃんと着ないと体が冷えるでしょう」
「あぁ、そうだな。……そういえば、そろそろそのジャケットも買い換えようかな」
あちこちが擦り切れて白くなって、もう長いこと着ているので保温性も下がっている気がする。
「良いかも知れないね。今度、一緒に買い物いこうか。私も冬物のブーツを新しく買いたいと思っていたの」
「お、いいね。じゃあ今度の休みに行こ」
ついでに個室のちょっといい店でも予約して、早めの夕食を食べて帰ってくるのもいいな。そしたら、その後は家でゆっくり……。なんて頭の中で算段をつけつつ、俺はジャケットを着た。
「次のジャケットもその緑色にするの?」
「いや? 特に決めてないけど、目立たない色のほうがいいかな。じゃ、行ってくるよ」
「うん。いってらっしゃい」
上司から指定された店に行くと、店員に案内され個室に入る。扉をあけると既にほろ酔いになっているスーツ姿の男があぐらをかいてくつろいでいた。
「加瀬ぇ。よく来たなぁ」
声のトーンと表情から上機嫌らしいことはすぐに分かった。
「なにか良いことでもあったんですか?」
隣に座り、ひとまずビールを注文してから尋ねてみると、サングラスは嬉しそうに喋りだした。
「いやぁ。思ったより長く元気にやってるみたいだから安心してよ」
部下の心配とはまた珍しい。
「聞いたぞぉ。柳先生から、最近は色々と出来ることが増えてきたんだって? ただの用心棒じゃないってすごく褒めてたぞ」
「まぁ、そうっすね。出来ること多いほうが、先生の負担減らせるんで」
二人で過ごす時間も増やせるし。
「……正直、こんなに長く持つとは思ってなかったんだよなぁ」
言いながら更に酒を煽った。あまり強くもない酒を、今日は珍しくよく飲む。まぁ事務所もそう遠くないから送って行くくらいのことはするつもりでいるが、それよりも口ぶりに違和感があった。
「ひどいなー、そんなに病院が似合わないっすか。俺」
深刻な調子にならないように探りを入れてみると、酔っぱらいは見事にボロをだした。
「病院じゃなくて、柳先生がさ。ちょーっと最初にお話したときに、危ない感じっていうかぁ、こりゃ加瀬もバイバイかな~と思ったんだよねぇ」
「は、え? バイバイって、それ、つまり」
思わず言葉を詰まらせてしまう。けれども言葉の真意を想像すれば酔いも一気に冷めることを言われているのだから当然だ。
「いやぁ悪かったって。でもお医者先生が入ってくれるのと、お前だとなぁ。お前、腕は良いのにコロシは時々やらかすだろぉ。だからいつまでも下っ端なんだよ! このぉ!」
この際、酔っぱらいの嫌味はどうでもいい。殺しでたまにやらかしてるのも事実だ。それより、なんだ? 先生が組織に入るかわりに俺が死ぬ予定だったってことか?
因果関係が分からない。確かに個人の価値としては先生のほうがはるかに上だろう。正規の免許を持ってる医者で後ろ暗いところが無いのに、この業界に引っ張ってこられることなんてそうない。始末するより、本人の意志ってことにしてこっちに巻き込んで、俺を見張りに付ければ下手なことはしないだろうと踏んで派遣したんじゃないのか。
「……酒、もっと飲みますよね。俺てきとうに良さそうなの頼みますよ」
酔え。もっと酔って明日には何も覚えてないくらい酔え!
「あぁ、ありがとぉなぁ」
「いえいえ、いつも世話になってますから、ね」
【15】
半年前──所属のヒットマンを救助した女、名前は『柳かすみ』
聞き覚えがあったので過去の資料を調べる
すぐに女の正体が判明
柳かすみは5年前、同ヒットマン加瀬 優が殺した男の元恋人。柳が作為的に加瀬を救助した可能性を考え、要観察。
本日2回目の接触 柳が所属ヒットマンを殺害する蓋然性ありとして対処。
「お嬢さん、手荒くしてすみませんね。ですがうちとしても、スタッフが減ると何かと困るもので」
煌々と照らされた倉庫の中で、ブルーシートの上にある椅子に座らされて、腕を後ろ手に縛られた上に、こめかみには拳銃が当てられている。
「しかし、加瀬の報告通り驚くほど抵抗なさらない。急に車に連れ込まれて悲鳴一つあげない方は初めて見ましたよ」
柳かすみは、拳銃に怯える様子もなく、ただ話している人間を、乱れた髪の隙間からじっと見ているだけだった。それだけで、表の人間とは思えない様相だった。
「……一回目の接触でしたら、加瀬の提案通りあなたのことは放置しておくつもりだったのですが、二回目の接触、あれ、わざとでしょう?」
返事はない。けれど。
「調べさせて頂きました。あなた、五年前に加瀬と既に会っている」
ぴくり、と肩が動く。
「殺された彼とは、恋仲だったそうですね。そしてちょうど、殺されたあの日に喧嘩をしている。ここまでは事前調査で分かっています。ただ、あの晩に何があったのか、加瀬の報告では目撃者はいなかったと聞いています。ですが、その後の報告で第一発見者が柳かすみさん、あなたであることは分かっています。事情聴取では待ち合わせに遅れて彼が亡くなった後に発見したと仰ったそうですが、私の推測では、あなたは彼が亡くなる瞬間に居合わせたのだと考えていますが、どうですかね?」
柳かすみはそれを聞くと、薄く笑った。口元だけが。そして嘲笑するように言った。
「あなた達って警察とも仲がいいんですね」
「……えぇ。色々な方と仲良くしておりますよ」
はぐらかした……? いや、今それをする意味がないはずだ。そう思っていると、柳かすみは続けてこんなことを言い出した。
「病院とは、あまり仲が良くないみたいですけれど。どうでしょうか?」
「は……それは……」
ぎらぎらと目を鈍く光らせて、口調だけは至極丁寧にそれはこちらを値踏みしている。
「私、少し早いけれど開業したいと思っているんです。人の多いところで気を使いながら働くより、自分が上に立つ方が楽で良いでしょう。小さな施設で良いんです。そこで馴染みのお客さんを作っていけたらな、なんて思ったり」
穏やかに、自らの価値を天秤へとのせてみせる。
「仲良く、致しませんか?」
下手くそな虚偽報告をするヒットマン一人と、社会的信用を持って虚偽書類を用意してくれる医者ならば、その価値は天秤にかけるまでもない。
縄を解き、家まで送り届けると提案するがそれを丁重に断られる。
「おそらく、迎えに来てくれますから。あなたもお気づきでしょうけれど」
車に乗せたところを見られたのに気づいていた。あの状況で、それを認識するほどの余裕があったとは。
「先生は、カタギとは思えませんな」
敬意を込めて言ったつもりだが、どう受け取られたかは分からない。
「私は五年前のあの日、死ぬはずだったのです。だからこの先いつ死んでも、案外長く生きたと思えるでしょう」
真っ白い顔色と合わさって、まるでゾンビか幽霊のような言いようだと思った。すでに自分は死人であり、もはや恐れるものは無いと。加瀬は、恐ろしい女を敵に回してしまった。
「必要であれば、先生のお使いになれそうな道具を用意しますが、銃器は扱いづらいでしょうから他の……すぐに用意できるものもありますので」
「お気遣いありがとうございます。けれど、大丈夫です。それより、一つお願いが」
「はい。なんでしょう」
「私の病院に、警備をしてくれる人を派遣してもらえませんか。治療に文句を言われて暴れられても面倒なので。そういうことに慣れている方で……そう、私の顔見知りだと安心なのですけれど」
じっくりと、自分のテリトリーに入れて復讐を遂げるつもりか。
出来ることなら、先生には加瀬を殺しそこねてもらって殺人未遂を盾に業界に引きずり込み、加瀬にはしばらく遠いところで働いてもらうとありがたいんだが、そうはさせてくれないか。
今すぐ殺しに行ってくれれば、先生が加瀬を殺れるとは思えないし、その力量差なら先生も殺さずに無力化出来るんだが。どうにも、守るものがない人間というのは扱いづらい。
「──病院の方、手はずが整ったら改めて連絡します」
「えぇ、よろしくお願い致します」
【16】
ガチャガチャ、と鍵の開く音がする、まだ帰る連絡はきていない……と思うが、酔って忘れたのだろうとそれほど気にせず豆腐を切って味噌汁にいれ、手を洗う。
玄関のドアが開いて、閉まる音がして。
けれどただいま、という声はなく、少しおかしいと思って様子を見に行こうと顔を上げたら、蒼白な顔をした恋人が立っていた。
「優! びっくりした。ひどい顔色……悪酔いしたの? とりあえず座って、今あたたかいお茶をもってくるから」
ちょうど温めたばかりの緑茶がある、と思って台所へ向き直るが、気配もなく近づいてきた恋人に腕を掴まれて振り返る。
「どうしたの? 寂しくなってしまったの?」
優しく笑いかける彼女に、加瀬はなにを言えばいいか分からなかった。けれども、知ってしまった彼女の過去を、己の犯した罪を、知らないふりは出来ないと思った。
なにか、言葉を、伝えたいと思って、結局ずいぶんと詰まらせながら口走った。
「かすみ……俺のこと、……俺の、こと、さ、……す、好き?」
彼女は少し驚いて目を瞬かせると、すぐに答えた。
「好きだよ」
嘘をついているとは、思えなかった。
一度だって、彼女が嘘をついたと思ったことはなかった。
でも、最初から全てが嘘だったのなら、これ以上、彼女にそれをさせたくはなかった。
「……俺も、好きなんだ。ほんとに」
愛している。だから。
「俺のこと、殺していいよ」
俺に出来るのはそれくらいだった。
頭の良い恋人は、その一言で全て気づいて顔色を変える。あとずさり、台所に手をついて、ずるずるとその場に座り込んだ。小さな肩が、震えていた。
彼女の目線に合うようにしゃがんで、俺は必死で言葉を吐き出した。
「ずっと、つらい思いさせてたんだな。嫌だったろう。仇の手当をして、優しくして、一緒に働いて、それだけでも苦痛だろうに、家でも一緒で、求められれば抱かれてやって。でも、もうそんなことしなくていい。もう俺は充分お前のことが好きだから、いつでも殺せるよ」
ジャケットに入れていた拳銃を出して、恋人に差し出す。
「使い方は分かるって前に言ってたよな」
震える手で、彼女はそれを受け取る。
そうして、自らの手に握られた銃をじっと見て、小さくこぼした。
「信じてもらう資格は、ないでしょうね」
彼女は顔を上げて、俺を見る。なぜ泣いているのか俺には分からなかった。
「かすみ……?」
「なんであなたを私の病院で働かせるように言ったと思う?」
「それは、そのほうが殺しやすい」
「じゃあなんで半年も、何もしないで恋人になんかなったと思っているの」
「それも、そのほうが殺しやすいだろう。俺は殺し屋で、これでもプロだ。油断させなければ、殺しそこねる危険があった。そこら辺を甘く見積もるようなことはしないだろ」
そうだ。彼女のそういうところはよく知っている。
彼女のため息の種類で、だいたい何に疲れているのか分かったり、眠い時特有の声であったり、得意な仕事、少し苦手な仕事。ずいぶんと彼女のことが分かるようになったと思っていた。
けれど一番大事なことは分かっていなかった。
「全て、違うと言ったら……あなたは信じられないでしょうね」
妙なことを言いながら、微笑んで泣いていた。悲しんでいるように見えた。どうしてだろう。
「違う? 今までの生活のことだよな。分かってるよ。恋人の仇を討つために嘘の生活をしてきたんだろ?」
自分の吐く言葉に責める響きが一つもないことに、彼女が泣いているのだと俺は気づかなかった。だから重ねて言った。
「もうそんな暮らしはしなくていい。もしかしたらかすみの……先生の考えていた計画とは少し違ってしまったのかもしれないが、俺は、逃げないから」
一言一言を噛みしめるように、伝えた。
「私が望んでこの暮らしをしていたと言ったら?」
「え……」
俺は耳を疑う。望んで? 偽りの生活を?
「私が、一つも嘘をついていないと言ったら、あなたは信じられる?」
「なにを……」
馬鹿なことを。そんな俺にだけ都合のいい話はないだろう。
「信じられないでしょうね。ずっと一番大事なことを隠していたんだから。私はずっと、あなたを殺す理由を探していたの」
殺す理由? そんなのもうはっきりしてる。お前の大事な人を俺が殺した。
「だけど、知れば知るほどあなたを好きになる。人殺しだと知っているのに! あの人を殺したのに! 分かっていても、あなたの優しいところを知ってしまったら……もう、憎むことなんか出来なかった!」
悲痛な顔をして、自分で自分を責めて、彼女は泣き叫んでいた。
「最初に、あの人を殺した後に、私も殺そうとして、それをやめたときのあなたの目が、忘れられない。冷たい目で私を殺そうとしておきながら、ためらって、見ず知らずの女が自分のことを黙っていると信じて、許してしまったときの、あなたのことを、忘れられない。悪魔みたいな女なの。あの瞬間、目の前で死んでいる彼よりも、あなたの心に惹かれてしまったんだから」
「どうして、どうしてあの時、私も殺してくれなかったの」
彼女の呻くようなその言葉に、俺は何も返せなかった。ただ、泣いて身を縮めるその小さな体を抱きしめる。
腕の中で彼女は、まだ俺の身を案じているらしく、言い募った。
「もう何も信じられないかもしれないけれど、あなたを殺すつもりが無いことはもう伝えているから。あの気が抜けると口の軽くなる、上司の人に。けれど、それも信じられないかもしれないから」
そんなことは、俺にとってはもうどうでも良かったけど。
「どうぞ、私を殺して」
それは彼女にとって最大の、身の潔白を証明するための道だった。
恋人の命を奪う脅威にならないために唯一出来ることだと思ったから。
「じゃあ、いつか殺したくなったときのために、側にいてくれ」
そう言うとまた、ひどく泣き出してしまった彼女の涙が、今度はきっと悲しいものではないと信じて俺はもう一度強く抱きしめた──。
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