羅刹の娘 第二章07

07

※残酷な描写、性的な描写があります

あらすじ
人口の約30%が霊力を持ち、妖《あやかし》と呼ばれる人間とは異なる種族との共存が求められる社会。共存とは言うものの、霊力の少ない人間からすれば妖は脅威である。従ってそれらと対抗する術を学ぶための学校が存在する。──その中で名門校である土御門学園に所属する少年少女の物語。
本作は高校生編と中学生編で構成されている。
中学生編では、三幸が中学生の時に巻き込まれた事件から、生まれた時の話まで遡る。義妹、義母との確執、愚鈍な父、奸悪な祖父、誰一人味方とは言えない家の中で三幸が苛烈極まる精神を育てていく。
力はなく、美貌と話術のみを武器にする少女の、危うくもあり、どこか清々しくもある生き様を描きました。

   【7】 「お嬢様、今日はなんだかお加減が悪そうですね。大丈夫ですか?」  目ざとい専属運転手は朝、いつもより少し早く家を出てきた三幸の様子がおかしいことに気づいた。 「学校、無理なさらないほうがいいんじゃ……」  そう言う井道を制し、蒼白な顔で笑うと短く告げる。 「家にいた方が、休めないわ」  井道はその言葉にハッとして、それ以上は何も言えず黙って車のドアを開けるしかなかった。けれども、明らかに顔色は悪いし口数も少なければ、声だっていつもはよく通る優しい声が、今は聞き取るのがやっとなほど弱々しかった。 「……お嬢様、やはり今日は休まれたほうが……それか、そうだ。早退なさったらどうです。それでしたら妹の方を送ったあと私が迎えに参りますし、そのあとしばらくドライブでもいたしませんか。家や学校にいるよりはお休みになれるかと」  我ながら名案を思いついたというように、意気揚々と言ってみる。しかしすぐに返事はない。不安になっていると小さな声で彼女は言った。 「そんなの、あのお母様が許すはず、ないわ」 「もちろん黙っておきますよ! 早退の連絡は学校側に私が代理でいたします。あとはお父上にだけお話すればいい。なんの心配もいりません」 「……、……でも、そんな、井道さんに迷惑が……」  もう一押しで、彼女はうなずきそうだった。 「そうおっしゃらないでください。私も三幸お嬢様のお力になりたいんです」  熱を込めてそう言うと、また少しの沈黙のあと三幸は力なく微笑んで井道の提案を受け入れた。 「──少し楽になってきた気がするわ。ありがとう」  潮の香る風をうけながらわずかに目を伏せて三幸は石造りのベンチに腰をおろしていた。井道が自販機まで走って買いに行った飲み物を受け取り、重ねて礼を言う。 「いつもありがとね。井道さん」  静謐な表情でありながら、瞳の奥に苦痛を秘めている少女はそう言って遠くの波へ視線を移す。 「家の中も、学校も、息が詰まるの」  ささやくような声で打ち明けられる心情は、今まで誰にも見せまいと努めてきたはずの弱さだった。 「お嬢様……」  どう言葉をかければ良いのか分からず、ただ狼狽える私に気づいて彼女はもう一度無理に微笑んで言う。 「ダメね。こんなこと言ってちゃ」  諦めるようとするような、振り切るような言い方が余計に痛々しかった。 「お嬢様、私に出来ることがあればなんでもおっしゃってください。私は、所詮あの家からすれば部外者に過ぎないかもしれませんが、でも、お嬢様のことを誰よりも知っている自信があります」  視線は合わない。僅かな沈黙──けれど彼女はすぐに意を決したように一つ息を吸い込むと、私に告げた。 「婚約が、もうすぐ決まりそうなの」  突然の宣告、私は一瞬なにを言っているのか分からなかった。  まだ中学校にあがったばかりの、つい最近まで着慣れない制服のリボンを車の中で何度も結び直していたあどけない彼女の、少女の姿からはかけ離れたような告白。  知識として、知ってはいる。このくらいの年の子だって、いやもっとずっと幼いうちから将来の相手が親同士で決められているのは珍しくない。あの傍若無人な妹だってもう何人かの候補が決まっているはずだ。けれども、この不遇な少女はその決められた道とは関係がないはずだった。そうだと思いこんでいた。  呆然と立ちすくんで、まるで頭が働かない私をよそに知りたくもない情報が次々に彼女の口から語られる。まるでなんでもないことかのように。もう全てを納得しているかのように。 「相手の人はね、少し年上の方なんですって。といってもまだ会ったこともないのだけど。でもね、すごく優しい方でお祖父様もお父様も賛成してるから大丈夫だと思うの。ほら、奥様が決めた方だと思うと少し怖いじゃない? でも、大丈夫なのよ。お写真も見たけど物静かそうな、穏やかな雰囲気の人だったわ」  右から左に流れていく言葉。普段ならありえない程なにも聞いていなかったが、思い出されたように付け足された最後だけが耳に残った。 「来月に初めてその方がうちに来るの」  そこでやっと我に返って、私は無意味にも尋ねた。 「来月の、いつですか?」 「五日よ──久々に着物を着なくちゃいけないからちょっと、不安なの」  来月の、六月の、五日  儚げに笑って告げられた日付だけが、私の記憶に刻まれる。    ***  例年より少し早い梅雨入りにうんざりしながら私は朝の支度をしていた。いつもなら休日の今日、朝早くから仕事へ向かう用意をしているのはあの母娘が買い物にいくからだ。 給料は良い割に仕事の少ない御角家に雇われたのは万々歳だったが、それとしてあの母娘の相手をするのは骨が折れる。荷物持ちの類なら仕事の範疇と思えたが、母親が少し席を外したときの娘がやっかいだった。罵詈雑言だけならかわいいほうで、車のシートを突然何度も蹴りだしたり、荷物を勝手に触って壊したら俺がやったと罪をなすりつけてみたり。ひどい時は運転中に小妖しょうよう──妖の中でも特に弱く契約をしなくても操ることのできるもの──をけしかけられたこともある。それは流石に母親がその場で注意したが、一歩間違えれば事故になりかねない危険な行為にもかかわらず、結局それ以上の叱責もなく車の中に妖よけの守り札が置かれて終わった。  ──「ひどい匂いね、それ」と顔を歪めて言ったもう一人の少女のために朝早く仕事に行くならどれほど気分が明るかったか。妖というのは視界は鈍く、かわりに匂いに過敏な傾向がある。したがって簡易的な妖よけにはよく妖の嫌いな匂いを焚き詰めた匂い札が使われる。力の強い妖怪からすれば無意味だが、まだ幼い娘が操れる程度の妖ならば充分だった。  やかましい母娘と違って、繊細な感覚を持つ三幸はいつも車に乗るとき、その匂いに顔をしかめるので私は彼女が車に乗る前には匂い札をはずしてケースにしまい、消臭剤をふりかけるのが最近のルーティーンになっていた。しかし今日は土曜、彼女が外出をすることはありえないし、匂いを消すためにはやく出かける必要もない。……だが、もしかしたら、少しはやく出れば彼女の顔くらいは見れるかもしれないと思った。  見合いがあと一週間後に迫った彼女の……。  会っても自分に出来ることなどなにもない。慰めの言葉を言おうにも、そんなもの笑って吹き飛ばされてしまうに違いない。  それでも。  指定された時間より早くついた井道は車庫で車の確認をしてから母娘のもとへ向かう。彼女たちはいつも支度に時間がかかって大抵は予定より出る時間が遅くなるから、今行けば確実にもうしばらく待っているようにと言われるだろう。  玄関から入ると、算段通りすぐ侍女にまだかかるから居間か、もしくは車庫で待っているようにと言われる。そこで井道が手洗いを借りたいと言うと、侍女はどうでもよさそうにご自由にと短く言った。  どうせこの家の人間は俺のことなど気にもとめていない。顔は見知っていても話すこともなければともに仕事をすることも当然ない。あるのは、今みたいにたまに手洗いを借りたり、飲み物でも飲ませてもらうくらいだ。俺のことを気にかけて名前まで覚えてくれているのは結局、旦那さまと三幸お嬢様だけ。  そう思っていると、後ろから視線を感じて振り返る。そこには。 「井道さん……?」  淡い黄色の浴衣を着た彼女がいた。  目を瞬かせて驚いた顔をする彼女のもとへ歩み寄ると、顔をほころばせ、すぐに俺がここにいる理由を言い当てた。 「二人が朝から着物を選んでいたわ。着物を買いにいくからだったのね。それなら、井道さんがここにいるのも納得だわ」 「お嬢様……」  なんと言って一週間後のことを口に出したものかと考えあぐねていると彼女は突然慌てて自分の浴衣を細い手で隠すように抱きしめて言った。 「ごめんなさい。私、なんていい加減な格好……! このあとシャワーをあびようと思ったから適当なものを着てきてしまったの。普段は、普段はちゃんとしているのよ」  焦って言い訳をする彼女を可愛らしいと思いながら改めて浴衣を見ると、確かに黄色の地に描かれた紫の朝顔はところどころ色が薄れていて、使い古されたものであるらしいことが分かった。 「気にしませんよお嬢様。それより、普段は浴衣を着てらっしゃるのですね」 「……最近はね。慣れようと思って。ほら、言ったでしょうもうすぐお見合いがあるって」  彼女から切り出されたことに動揺しながら、相槌をうつ。 「むこうのお家では皆さん着物で生活してるでしょうから、私だけ洋服というのも、ちょっと、ね……今のうちに慣れておかないと」  そう言って、悲しげに笑った。  彼女はどこへ行っても自由などないのだろうか。この家を出ても結局は相手の家に、相手のしきたりに準じて、霊力のない彼女は貞淑で邪魔にならず愛想の良い女でなければならない。それでもこの家で生きていくよりはいくらかましなのだろうか。 「っ、よく、お似合いですよ。三幸お嬢様」  なけなしの慰めを声に込めて伝えると、もう一度彼女は無理に笑って。 「ありがとう」  笑って、泣いた。ぽた、と一滴、透明な雫がこぼれておちた。それに、俺も驚いたがなにより彼女自身が驚いて、あわてて涙をぬぐうけれどあとかあとから溢れてきて本当に見たことないくらい慌てる彼女をひとまず廊下からすぐ隣の部屋に隠す。 「三幸お嬢様、ハンカチを……」  常備している白いハンカチを差し出せば謝りながらそれを受け取って顔を覆う。 「私、こんなつもりじゃ、ごめんなさい。なぜだか急に、とまらなくて」  小さく震える肩、穏やかでいつも微笑んでいた彼女は影もなく、ただ自身に降り掛かってくる理不尽になすすべもなく隠れて涙を流すことしか出来ない少女。  ──初めて彼女を見た時は、短く切られ、所々はねた髪に丈の合わない洋服を与えられたみすぼらしい子供だった。いつ見かけても睨みつけるように見上げてきた傷ついた子供。それが、いつからか髪をのばし、紺色の制服に身を包み、すっかり見違えたと思っていた。けれど、本当の姿は、ずっと傷ついた子供のまま何も変わっていなかったのだと気づく。  このかわいそうな子供を、あの冷たい親のかわりに抱きしめてやりたいと思いながらそれは許されないことだと唇を噛みしめる。ただ見守るだけ。そう拳を握りしめたとき、ふらりと彼女がよろめいて一歩足を出したので思わず受け止める形になる。あわてて支えながらも手を離そうとすると彼女は俺の腕をすがるように掴んで言った。 「……すこしだけ、少しだけこうしていて」  震える声を押し殺すように言う姿に、俺は思わず立場を忘れて彼女を抱きしめた。それに応じるように胸元へ押し付けられる頭の重みをどうして愛さずにおれようか。  腕の中に甘いこうのかおりを着た少女がひとり  たった独りで孤独にたえてここまで来たというのに  ゆくさきはただ 檻の在り処が変わるだけ 「運転手はどこ?」 「居間か車庫で待つように伝えたのですか」 「じゃあ車の方で待ってるのかしら」  母親と使用人の会話が聞こえてきて、意識を取られている間に気がつけば彼女の体は離れ、もとのおだやかな微笑みをたたえた大人の顔をしていた。濡れた瞳とわずかに乱れた黒髪が、朝顔の愛らしい浴衣とは裏腹に妖艶さをまとう。 「おじょうさ、ま……」  優美に微笑み、白いハンカチを握りしめたままそのひとは別れを告げる。 「ありがとう。いってらっしゃい。遅いとお母様に怒られてしまうわ」 「……はい」  立ち去る私に彼女は後ろからひとつだけ声をかける。 「ハンカチ、きっと洗って返すわね」  どんな顔をしてそれを言ったのか。俺は知らない。

次の話を読む前の話に戻る

目次

コメント

タイトルとURLをコピーしました