08
※残酷な描写、性的な描写があります
あらすじ
人口の約30%が霊力を持ち、妖《あやかし》と呼ばれる人間とは異なる種族との共存が求められる社会。共存とは言うものの、霊力の少ない人間からすれば妖は脅威である。従ってそれらと対抗する術を学ぶための学校が存在する。──その中で名門校である土御門学園に所属する少年少女の物語。
本作は高校生編と中学生編で構成されている。
中学生編では、三幸が中学生の時に巻き込まれた事件から、生まれた時の話まで遡る。義妹、義母との確執、愚鈍な父、奸悪な祖父、誰一人味方とは言えない家の中で三幸が苛烈極まる精神を育てていく。
力はなく、美貌と話術のみを武器にする少女の、危うくもあり、どこか清々しくもある生き様を描きました。
【8】
「お嬢様、こちらのお色はいかがでしょうか」
母娘のいなくなった家の中で意気揚々と着物を並べる数人の侍女たちは、自分こそが最も三幸に似合う、かつ三幸が気に入るものを見つけてみせると目を輝かせていた。
まだわずかに湿度の残る黒髪は既に侍女の手によって美しく束ねあげられており、首から下を先程から着せ替え人形のように目まぐるしく取り替えている。
しかし先ほど髪を散々いろいろな形に結び変えた侍女が、今度は着物の色が変わったらやはり髪飾りも変えなければと言い出してじゃらじゃらと先ほど持ってきていた箱よりも大量の飾りが入ったものを持ってきたのでもはやこの着せ替え大会はいつ終わるか分からない。
「やっぱり髪型ももう一度かえてよろしいですか?」
「あ、あぁ、うん。お願いするよ」
疲れはあったが、かつて貝のように目を伏せて押し黙っていた彼女たちが心底嬉しそうに一生懸命考えてくれるものだから断ることもあるまい。
「まだ髪が少し濡れているからまとまりやすいんです。今のうちに色々試してしまいたくて。もう少し我慢してくださいねお嬢様」
着物のたもとが邪魔にならないようきっちりとたすき掛けした侍女たちのやる気たるや。
隣の部屋で仕上がるのを待っている父のことなど彼女たちの頭にはなく、太陽の向きがかわり雨が少し降り始めた頃になってようやく納得のいく仕上がりになったらしかった。
先に父に着付けが終わったことを伝えに言った侍女が父を起こす声が聞こえる。
「さ、お化粧もバッチリです! 旦那様に見ていただきましょう」
満足げな侍女に促され隣の部屋へ行く襖を開く。寝起きの父は頭をかきながら体勢をおこしたばかりという感じだったが、顔をあげて三幸のことを見ると三度瞬きをした。
「──……まつり……」
ごく近くにいた侍女にしか聞こえないほどの声量で、思わずそう言ったのを三幸は気づいたのか、それとも気づかなかったからこそ優しく微笑んだのか。一瞬青ざめた侍女は、それをごまかすように三幸の装いにこだわった箇所を説明し始めた。
しとしとと雨が庭の土を柔らかく打つ音が聞こえる中、薄暗い外とは異なり煌々と明かりをつけた室内で父親は畳の上を歩き回って三幸を見るとうなずきながら褒め称える。
「しばらく三幸の着物姿は見ていなかったが、やはりよく似合うね。とても綺麗だ。きっと他のもよく似合ってただろう。それも見たかったな」
「ありがとうございます。お父様にそう言っていただけて嬉しいです」
父の発言に、侍女たちは銘々に自分が他に似合っていると思っていた色や帯の話などをはじめる。
──こうしているとまるで、満ち足りた名家の淑女かのようだ、とふいに三幸は思った。けれども、この時間がもう間もなく断ち切られることを彼女は知っている。
それは、ひとつの報せによって
「旦那様!」
悲鳴にも近い声で呼ばれ、驚きながら開け放たれた方を見ると、気がつけば先程よりずいぶん強くなった雨音を背に蒼白な顔をした侍女は叫んだ。
「奥様とお嬢様が妖に襲われて……!」
先程までのなごやかな雰囲気は一瞬にして地獄と化した。父は激しく狼狽して、けれどもまだ希望を持って侍女に状況を聞く。
「あかりと、みゆきはいま、どこに……」
「病院です。病院から連絡がありまして、そ、それで」
「容態は!」
「ようだい、は、す、すでに」
「なんだ! すでに!? 意識は? あるのか!?」
「すでに……いきを、ひ、ひきとら、れた、と……」
父は呆然と膝をつき、何も言えなかった。まだ悲しむべき自体が起きているということすら理解出来なかった。
「車に、乗っている状態で襲われ、病院についたときにはすでに、処置のしようが無い状態だったようで、先程医師が死亡確認を行ったと……」
言いながら侍女は嗚咽をもらしその場で泣き崩れる。無理もない。電話を受け取った侍女は使用人の中でも位が高くあの母のお気に入りの一人だったのだから。父は声を出して泣く彼女をみてやっと、もうどうすることも出来ないと気づいた。
「うそだ、なんで、あかりまで……なんで……」
ふるえる哀れな男の背に、みゆきは静かに手を添える。
「お父様……おとうさま、大丈夫です。私がそばにいますから」
微笑んで、それは聖母の如き清廉さで美しい微笑みをつくり、一筋のしずくを落とす。悲しみの表象としての涙を、彼女は流してみせた。
父親は娘に抱きしめられ子どものように泣き叫び、その場にいた、決してあの女主人を快く思っていなかった者たちもまた思わず涙を流した。
けれどその場で、三幸の髪を結った侍女だけが凍りついたような表情をして、三幸の方を見た。三幸もまたその視線に気づき、目線が──あったまま、口だけが乖離したように動いて問うた。
「ねぇ、井道さん──運転されてた方は、同じ病院に?」
三幸の問いにかすれた声で返事がある。
「運転手は、お二人よりさらに損傷が、ひどく……身元の特定がすぐには出来ない状態だと、ただ、状況からみて、間違いないかと……」
「そう……じゃあ、井道さんのご家族にも連絡をしなければ、ね」
「は、はい。すぐに連絡先を確認して、っ、まいり、ます」
そう言ってふらふらと立ち上がろうとする侍女を制し、三幸はゆっくり父から離れると静かに立ち上がり自らの涙を拭い告げる。
「私が連絡するわ。あなたは休んでいなさい」
「で、ですが……!」
「その声で電話をされても、井道さんのご両親も困ってしまうわよ」
「ぁ……っ、も、申しわけ、ありません」
「あなたはお父様のお着替えを手伝って。すぐに病院へ行きますから。それから誰か副運転手に連絡を」
「かしこまりました……」
***
「──はい。はい、そうです。私供もすぐに向かいますので。はい、失礼いたします」
カチャン、と受話器をおいて三幸は先程から視線を感じる方を向く。
「私に、用事があるの?」
蒼白な顔で立ち尽くしているのは先程の髪を結った彼女である。三幸は震える彼女のもとへゆっくりと歩み寄る。
「言いたいことがあるんでしょう?」
柔和な微笑みとは裏腹に、温度のない瞳が瞬きもせず見上げる。それでも、尋ねずにいられなかった。
「お嬢様は、普段、甘い香りは、嫌っておいでだったと、記憶しております」
三幸は表情を変えないまま、何も答えない。
「……っ、けれど、今日、お嬢様の髪から、わずかに、ほんとうにわずかにですが、甘い、花のような、香りが……」
一歩、三幸は更に寄る。怯える侍女に寄り添うように。
「間違えてしまったのかも。ほら、私はお母様や御幸と違って、お前たちとおなじ浴場を使っているでしょう? 置いてあったシャンプーを間違えて使ってしまったのかも。ね?」
「お、お嬢様が、甘い香りを嫌うのは、御幸様が、御角お嬢様が蟲を使役されることが多いからでしょう……だから、蟲が好む花の香りは、お嫌いなのでしょう……!? それを、お間違えになるはずが──」
ひたり、と少女の手が彼女の頬に触れる。見上げる微笑みはよりいっそう明白な笑みを刻み、けれど見開かれた黒い大きな瞳が、呼吸すら許されないのではないかと、彼女は思うほどにそれは恐ろしかった。
「お前は、ずっと私のことを気にかけてくれていたね。この家のほとんどの人間が、私の好みなど、私のまとう香りなど、意識にも置かないというのに」
ささやくような声は、優しく彼女の耳にだけ響く。けれども次の瞬間それは冷たく命じた。
「私を信じるか、自分を信じるか、選びなさい」
怯えきった彼女は、指先を震わせ目を見開いて、浅く息を吸うのがやっとだった。それでも……それでも彼女はこの家にやってきてから今まで女主人に鈍臭い、役立たずと罵られても笑ってごまかしながら三幸を傷つけはしなかった。傍観する己を恥じて泣き、殴られる三幸を見てまた泣いた。
愚かで役に立たなくても、正しくありたかった。だから、途切れ途切れの声で答えた。
「わ、わたしは、じ、じぶんを、しんじ、させてくだ、さい」
これを言ってしまえば三幸の敵に回るということだと分かっている。どのような叱責を、いやそれだけで済むはずはないと覚悟する。けれど、三幸はその返答を聞くとフッと手を離し、ほんのわずかに眉根をよせて、しかしやはり笑顔をつくったまま言った。
「では、早いうちに荷物をまとめておきなさい」
それだけ告げて立ち去ろうとする主人に、思わず呼んだ。
「三幸お嬢様!」
「退職にあたっての手当は十分出すからはやく自分にあった仕事を見つけなさい。こんな家じゃなくてね」
それが慈悲に満ちた言葉だと気づく。
「……申し訳、ありません……」
頭を下げる侍女に、三幸は少しおかしそうに笑って別れのかわりに小さな思い出をひとつ。
「私が殴られている時に限って、お茶をこぼしたあなたのことは、少し好きだったよ」
その言葉に、彼女はこの家で最後の涙を流した。
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