07
※一部残酷な描写があります
あらすじ
明治中期~後期にかけて忍の里を舞台にした物語。
帝都から里へ帰ってきた燐太郎《りんたろう》に、忍修行中の少女 鼓《つづみ》が一目惚れするところから始まる。洋装を着こなし、優しげに笑う燐太郎に心惹かれる鼓だが、程なくして姉のサヤと燐太郎が婚約したことを知らされる。ショックを受けながらも大好きな姉を祝福する鼓。けれど、幼い頃から鼓を気にかけて助けてくれていた蒲《ガマ》はサヤに対して懐疑的で……。
様々な思惑が巡りながら、才能とは何か、自分にとっての幸せとは何なのか、探し、悩み、苦しみながら美しい悲劇へと向かっていく。
【7】
蒲が来て鼓の看病をしてくれていた、と予定通りサヤに伝え少し様子を見てくると話す。サヤは当然、自分もと立ち上がろうとするが、病気がうつっては困るだろうとそれを制止して席をあとにする。
「鼓、いるか?」
トントンと鼓の部屋の扉をノックするが返事はない。気配は確かに感じ取れるが……。
「……鼓、入るよ」
スッと戸を引くと、身じろぎもせず硝子鏡の前でうずくまる鼓がいた。
顔を両手で覆い、背を丸め薄手の羽織が肩から落ちてわずかに乱れた肌襦袢がのぞく。おそらく蒲がいなくなってからそのままの姿勢でずっとこうしていたのだろう、と思いその小さな体にある痛みを想像する。
「つづみ、近くへいくよ」
なるたけ声をゆるやかに、怖がらせないように、刺激してしまわないように。足音は床を足袋が擦る音だけにして。キシ、キシと鳴るそれが少しでも優しく、決して鼓を脅かさない音として伝わるように。
「つづみ」
ほど近くでもう一度呼ぶ。床に膝をつき、彼女の耳に声が届くように。すると、ぴくりと彼女が動いたのが分かった。わずかに揺れた長い髪がそれを知らせる。
「つづみ、僕が分かるか?」
体にはふれず、けれどもいつでもそれが叶う距離で問う。
「……りん、た、ろう、にい、さん……──?」
顔を上げた鼓は虚ろな目で、大きく見開かれた眼の先に暗く燐太郎を映して、笑った。
「今日は結婚式でしょう。遅れてしまっては大変ですよ」
悲しげに、けれどもはっきりとした口調でそう言った。涙の痕はまだ乾ききっていないけれど、瞼は腫れていない。ほんの少し目が赤いだけ。どこか平静を装ったその表情と、震える指先の不調和がより痛々しさをおもわせる。
「……式より、鼓の方が大事です。具合が悪いなら僕がベッドまで運びましょう。床の上では体が痛みますよ」
初めて入った鼓の部屋の中で燐太郎は言った。姉の部屋とは随分違う、西洋式を取り入れた一室に、自分の感覚がよく馴染むことに少したじろぎながら。
「触れてもいいですか」
こちらの感情を悟られないよう、けれども害意がないと伝わるよう優しい表情で手を差し出すと、やはり鼓は微笑んだままそれを取った。どこかぼんやりと、乱れた髪に気づく様子もなく安心しきった子どものようにその手にすがる。
そのままゆっくり抱き上げて、黒い金属骨に置かれた布団の上に彼女を下ろす。
されるがまま
重そうな瞼をゆっくりと動かし
襦袢のうちから白い肌がのぞいている
小さく膨らんだそれがゆるやかに呼吸している
微笑んでいる
あどけなく
芳しく
まだ、酒が残っているのだろうかと、燐太郎は思った。
忍は皆、自分の存在を隠すために自らの音も匂いも消す。そのための訓練と自己管理と、またいくらかは薬を調合し服薬することで完成する。
けれどこの少女は、雨が振り始める前のような、どこか湿度のある──そしてほんの僅かに甘い、こんな匂いの酒を以前友人に呑まされた。赤い色の、甘く、苦い、なにかの果実から出来た酒だった。
そう、彼女は、鼓は、まるでまだ青く硬い果実のようなのに、その内側から熟れた女の気配がするのだ。
時折感じるそれが、俺は恐ろしく、同時に惹かれている。初めて見た時から、ずっと。
ぐらつく視界、何度か頭を振って息を吐き、むせ返るような甘さから意識を逃がすと、今度は部屋の稠度に気をそらす。部屋に入ったときから感じていた、異国の品。
天井に届かんばかりの大きな硝子鏡で出来た姿見が一番の異彩を放っていた。
これほどの物はまだ帝都でさえそう見ない。ましてやこの山奥の里にあるなど想像もしなかった。いくら里の者が外の文化や人間に対して好奇心を持って接するとはいえ、それはあくまで部外者に過ぎないからだ。それらを内に取り入れようとはしていない。ガラス戸さえ、姿が映るほど精巧なものは見ない。
その里でこの一室だけが、まるで洋館のような造りを成している。
鼓は忍になってからしばらく家を空けることも増え、都会へ出る仕事もあるだろうと思ってはいたが、自室をここまで作り変えているとは。サヤならこんな部屋では落ち着かなくて満足に眠ることも出来ないだろうに……そこまで考えて、もう一度頭を振って燐太郎は眠る鼓の襦袢を整えて、布団をかけると逃げるように部屋を出た。
これ以上、考えてはいけないと本能が告げている。
俺のすべきことは、サヤを愛し、家庭を守り、そして仕事を楽しむことだ。両親を安心させ、家業を発展させていくこと。それだけ考えればいい。
その傍らでほんの少し、愛する妻の家族を気にかけるだけ。そう、それだけ……。
***
「鼓は? どうだった?」
酔っぱらいをあしらいながら、燐太郎が戻ってきたことに気づくとすぐに心配そうな顔で聞く。
「熱で少し朦朧としてるみたいだった。咳は出てないみたいだけど、まだ原因がよく分からないし、とりあえず眠いようだったからベッドに寝かせておいたよ」
「べっど?」
聞き馴染みのない言葉が突然出てきて首をかしげるサヤに、すぐに言い直す。
「布団にね。無理に起き上がろうとしたみたいで床で寝ていたから。たぶん結婚式に来ようとしてくれてたんだと思う。声をかけたときもそのことを口にしてた」
「そうだったの……昨日は全然気づかなかった。情けないわ。自分のことばっかりで浮かれてて……。きっと心配かけないように無理してたのね」
それは本心から後悔しているから出た言葉だった。
サヤもまた、鼓の才能に嫉妬しながらも血のつながらない妹のことを大切に思っている。自分が十七のときにやってきたボロボロの子供を、愛してあげなければと思った。他の誰より自分が味方になってあげなければこの子はきっと世界の全てが敵だと思ってしまう。そう思って。
一緒に暮らす内にどんどん自分に心を許してくれているのが伝わってきて、余計に愛しくなった。小さなことでも心配しているのだという気持ちを伝えると少し嬉しそうに、照れくさそうに笑うのも可愛くて仕方がないと思っていた。
すぐに、父が鼓を引き取った理由がその才能にあるのだと気づいたが、そんなことはどうだっていいと思っていた。たくさん傷ついた子が、父によって最も栄えある立場になるのなら構わないと。
その気持ちが変わり始めたのは、燐太郎が帰ってきてからだった。
サヤは、鼓が燐太郎を見て、見たことがない顔をしたので怖かった。いつものどこか諦観したような表情でも、自分が話しかけたときの少し安心したような顔でもなく、目を輝かせジッと。それは獲物を見つめる目──。
奪われる、と思った。八つも下の子供に、女としての幸せすら取られる、と。父の子として、忍としての才能が無かった自分にはもうそれしか残っていないのに。どうしたって自分の方が勝ち目があるはずなのに、言いようのない焦りを感じて、でもサヤの結婚について一応は考えていた父が燐太郎にとって都合が良いように話を持ちかけて進めてくれた。すぐに燐太郎の両親も応じてくれて、驚くほど簡単に幸せを手に入れた。
それに従って、どんどん鼓の心が離れていくのは気づいていた。いつからか互いの部屋に入ることすら無くなって、たまに食事を一緒にとるくらいしかなくなって。でも、鼓には蒲がいる。相変わらず私のことが大嫌いな蒲がそばにいるから。もう私が味方になってあげなくてもきっと大丈夫。私は、私の幸せを大事にすればいい。
私は、私のこれからを愛してあげればいい。もう、この家の娘というだけではないのだから。この授かった幸福の象徴こそ、私が愛すべきもの──。
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