思色の打掛 15

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※一部残酷な描写があります

あらすじ
明治中期~後期にかけて忍の里を舞台にした物語。
帝都から里へ帰ってきた燐太郎《りんたろう》に、忍修行中の少女 鼓《つづみ》が一目惚れするところから始まる。洋装を着こなし、優しげに笑う燐太郎に心惹かれる鼓だが、程なくして姉のサヤと燐太郎が婚約したことを知らされる。ショックを受けながらも大好きな姉を祝福する鼓。けれど、幼い頃から鼓を気にかけて助けてくれていた蒲《ガマ》はサヤに対して懐疑的で……。
様々な思惑が巡りながら、才能とは何か、自分にとっての幸せとは何なのか、探し、悩み、苦しみながら美しい悲劇へと向かっていく。

   【15】 「サヤ、体調はどうだ」  産み月までもうあと一ヶ月という頃、サヤは少し動くのもひどく疲れるらしく、元気に振る舞おうとしているもののやはり辛そうだった。 「平気よ。あなたがくれたこの椅子、すごく楽なの。床の上に座るとお腹が苦しくって」 「そうか。母さんの勧めですぐに持ってきて良かった。他にして欲しいことはあるか? そうだ、少しマッサージをしようか。足も張ってしんどいだろう。お湯をもってくるよ」  ──献身的な夫、理解のある姑、自分はなんて恵まれているのだろうかと思う。  この里は、近隣の村々より出産に対する穢れの意識もなく、とても産みやすいのは事実だったが、その中でも私の環境は素晴らしいものに違いなかった。 「熱すぎないか? どう?」 「ちょうどいいわ」  シャツをまくり、畳に幾重にか引いた古くなった着物の上に膝をつき、湯の中にいれたサヤの足を優しく揉んでくれる。  ちゃぷちゃぷとぬるま湯がやわらかな音を立てて部屋の中に響き、木に吸い込まれていく。 「……私、幸せだわ」  心地よさにすこし眠気を誘われながらサヤは言った。 「大好きな人に愛されて、優しい人に囲まれて、大好きな人の子供を産めるんですもの」  でも、とサヤは続けた。 「鼓のことだけが、少し気がかりなの。もう、ずっと顔を見てない。きっと、私の醜い心を知られてしまったのね」 「醜い? サヤが?」  何も知らぬフリをして燐太郎は信じられないというふうに聞き返した。 「あの子、本当は燐太郎のことが好きだったのよ。私はそれを知ってた。でも、気づかないフリをしてあの子に婚約のことを伝えたの。あの子、喜んでくれたわ。本当は辛かったと思うけど」 「でもずいぶん前のことだろう? 今は、蒲がよく支えてくれてるようだし」 「……蒲。きっとあの子が一番、私を憎んでる。私、ずっとあの子のことが怖くて仕方がないのよ。結婚した後から急に姿を現すようになって、声だけでも充分恐ろしいのに。きっと蒲の方が先に、私の醜さに気づいたんだわ。だから、鼓の気持ちを傷つけた私を許さない」 「……サヤは、自分が幸せになるために努力しただけだ。誰も責められることじゃない。そうだろ?」 「そうね……。そう。私は、幸せになりたかった」 「鼓のことは俺も気になってたよ。このままずっと顔を見せないつもりなのかって。機会があれば俺からも話してみよう」 「えぇ。昔みたいにとは言わないけれど、でも私、この子と鼓には仲良くして欲しいと思っているの。少しずつでいいから、また話ができたら嬉しいわ」  腹の子を大事そうに撫でながら、サヤはまどろむ。  彼女は、燐太郎の月並みな慰めの通り誰から責められるいわれもない生き方をしていた。常に優しくあろうと努め、人を愛し、自分の周りの人も幸福であって欲しいと思っていた。焦りから鼓の恋情を無視する形になったのは事実だが、周りから見ても鼓よりサヤの方が結ばれるのはたやすく想像できただろう。  けれど、彼女は大きな間違いを犯していた。そしてそれに気づくには、彼女は何も知らなさすぎた。  鼓が自身の夫へ向ける感情の危うさも、姿を見せない本当の理由も。  気づくには、彼女は鼓のことを知らない。彼女の知っている鼓は、その優しさに報いようと無邪気に甘えていた僅かな時期の鼓でしかないのだから。    ***  サリサリと鉛筆が紙の上を滑る音だけが静かな部屋の中に響く。  窓からはほとんど光が入ってこない時分、石油ランプの明かりが机上を照らす。 「……やっぱりか」  ぼそりとつぶやく彼の声は、落胆と危惧の色を宿している。  苛立たしげに頭をかきながら紙の上を走る鉛筆は速さを増した。  数日前、蒲が部屋を訪れた時の言葉が燐太郎はずっと気にかかっていた。  蒲の言う通り、自分には商人に必要な要素は欠けているのだろう。ならばそれは計算で補わなければならない。だから今まで以上に慎重になる必要があるのではないだろうかと思った。そして雇っている人間のことから商品の移動経路など既に一度調べたものも含めて全て洗い直した。少々費用はかかったもののやはり調べたのは正しかった。  蒲がこれを知っていたのかは分からないが、結果としてもう少し気づくのが遅れていれば大きな損害を被ったことは間違いない。  椅子の背に体重を預け、思わずため息が出る。  問題を解決するためにはそれなりの対応が必要だった。  問題を起こしたのは雇っていた従業員だ。商品の運搬を任せていたものが我欲を出し取引先に払われるはずの金を自分の懐に入れ、それどころか取引先の町の一つに対して商売に関する情報を教える変わりに金を強請りとろうとしていたのだ。しかも、この事業を始める時に信用できるものを雇いたかったので村の中の人間を使ったことが裏目に出た。里の中での争いは禁忌である。共倒れを防ぐために当然のことだった。かといってただ解雇するだけという生ぬるい処置では似たような輩に舐められる。出来ることなら今後も里の中の人間を雇うほうが情報の安全性は守られるのだが……。 「ひとまず、頭領に相談しなければ、な……」  油断したつもりは無かったが失態だった。里の忍の存在が外部に漏れれば俺も処罰の対象になるだろう。  頭を痛くしながら上着を羽織り、燐太郎は夜遅くにサヤの居る家へと向かった。  ──「という事で、しかるべき処分をすべきだと考えているのですが、俺の裁量の範囲で与えられる処分をお聞きすべきと思い参りました。俺の管理不行き届きで里へ迷惑をかけてしまって、申し訳ありません」  頭を下げる燐太郎に、頭領はさして思案する様子もなくあっさりと答えた。 「まだ情報が漏れたわけではないんだろう」 「はい。脅していた段階です。それなりの額を要求していたので相手も即決は出来ず、調査を依頼した忍が独断で、その場で取引が雇い主に発覚しそうなので手を引くようにと伝えたので今のところ心配はありません」 「ほう、確か調査依頼を行ったのは今年卒業したやつだったな。評価に加えておこう」 「早い判断で助かりました。ただ未遂とはいえ、着服に情報漏洩ですから──」 「あぁ。問題ない。確かに里での争いは禁忌だが、情報を漏らすということは里に背く行為だ。こちらで処分する」 「は、……それは、どのように……」 「ちょうど帰ってくる頃だろう」  そう言うと頭領の机にある蝋燭がゆらりと揺れた。  瞬きの間に、それは淡い影を伴って立ち現れる。 「──任務達成の報告をと思ったら、こんな夜半に珍しいな。義兄にいさん」  黒い羽織りを纏い、長い黒髪に隠れた表情は──瞳だけが爛々と火を映していた。 「鼓が先に帰ったか」 「残念だけど蒲は休んでるよ。あいつは細かい報告をするのが嫌いだからな」  二人で仕事に行っていたのか、と燐太郎は理解した。 「どちらでも構わん。里の掟に背くものが出た。処分しろ」 「あぁ、そういうこと」  ちらりと鼓は燐太郎の方を見る。呆然とこれから何が起きるのか受け止めきれていない男の方を。 「こんなに早く仕事を任される事になるとはね。一体なにをやったのさ」 「……雇った人間が、資金の着服と、情報を漏らそうとしたんだ。正式な忍ではないが、訓練を受けたものに商品の搬送を任せていることが漏れれば忍の存在に気づくものが現れかねない」 「なるほどな。確かにそれは仕事以前に里の者として許されない。半端モンを雇ったお前の責任もあるが、まぁいい。掟を破ったのはその愚図だからな。さっさと消してこよう。どのやり方がいい」 「どの、って、いうのは……」 「殺されたことが分かるほうがいいのか、それとも自然に死んだことになるほうが良いのか、ということだ。似たようなことをするやつが出ないように見せしめにしたいなら、死体ごと跡形もなく消してやるよ。商売の邪魔をした腹いせがしたいってんなら生きたままお前の前まで連れてきてやろうか?」  可笑しそうに彼女は言う。 「そいつに家庭はあるのか?」 「あ、ある」 「そうか。それなら場合によっちゃ全部燃やすか?」  ──燐太郎はその時、初めて本当の意味で忍としての鼓を見た。人の命を綺麗に奪い去る存在を。頭では知っていたことを、現実のものとして理解したのだ。 「っ、まってくれ。従業員への対応は今後考えていく。それは俺がするべきことだ。だから……」 「じゃあそいつだけ殺してくるよ。分かんないように、眠るように殺してやる。葬式には行ってやんな。それでいいだろ、頭領」 「あぁ。顔と名前と、場所はこれだ」  書類を渡されて、一瞥すると鼓はすぐにそれを返す。 「早いほうが良いな。まぁ、明日、日が暮れるまでには片付くよ。じゃあな」  そう言うと、瞬きの間に彼女は消えた。 「……本当に、優秀なんですね」  思わず出た言葉に、頭領は笑った。 「まだ何もしてないだろう」  と言って。    ***  翌日、時計の針が十二を少し過ぎた頃、件の人物は突然具合を悪くしてその場に倒れ込み、すぐ家に運ばれたがそのまま目が覚めること無く息を引き取った。  かけつけた医者は、昼に食べた貝にあたったのだろうと判断した。貝は彼の好物で、今までに同じ原因で亡くなった者もいたため妻子は悲しみながらも納得し、間もなく彼の葬儀が執り行われたのだった。 「じゃあ行ってくるよ」  一度家に帰って喪服に着替えねばならないため朝早く出かけていく燐太郎をサヤが見送る。 「えぇ……あなた、あまり気を落とさないでね。働いていた子が突然こんなことになって、辛いと思うけど……」  心底心配そうに言う妻は、何も知らない。知ったら彼女は何というのだろうか、と思う。恐れるのか、軽蔑するのか、それとも案外、あっさりと受け入れるのか。 「……大丈夫。ちゃんと顔を見て別れを言ってくるよ」 「えぇ。いってらっしゃい」  考えても仕方ないことだ。話すつもりはこの先もずっとないのだから。  ──どこか、憂いを帯びた夫を見送り、サヤはいつものように日当たりの良い南向きの一室で燐太郎から貰った椅子の上に腰を下ろした。

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